わたしのこと
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しがフェスタ
歴史の偉大なる『小和田哲男』先生にお会いしました💕
しがフェスタ内『彦根「城」歴史セミナー 彦根井伊家の歴史とその謎に迫る』のレポート、続きを書いていきます。
なぜ井伊氏は徳川譜代筆頭になったのか?
先生のご講義では、4つの謎に分けていました。
謎1、なぜ井伊氏は徳川譜代筆頭になったのか?
謎2、なぜ井伊家は彦根城を築いた?
謎3、江戸時代の井伊家はどのような役割を果たした?
謎4、彦根城の歴史的な価値とは?
今回は、謎1をご紹介します。
小和田先生のご講義より
彦根井伊家は、よく『徳川四天王』と数えられますよね。でもコレ、当時からの呼び名でなく後世につけられたものなんです。
徳川四天王とは、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政の4人。
先生が長年読み込んだ歴史書には、『三傑』というのは出てきます。本多、榊原、井伊の三傑。
そして三傑に入っていない四天王・酒井忠次は、東西、西・豊橋の酒井忠次、東・岡崎の石川数正として登場するのです。
しかし、東西の西・石川数正が秀吉に引き抜かれ、徳川家臣ではなくなってしまいます。徳川としては、裏切り者を書くわけにはいきません。
そのため、浮いた西の酒井を三傑に含めた『徳川四天王』という説が有力なんですね。
井伊家のこと
ここから先生の講義ではなく、私の学びで補足を少し。
井伊の名は平安時代から見られます。鎌倉、室町ときて、戦国時代。
井伊氏は今川家に仕えましたが、井伊直親は謀反の疑いをかけられ討たれてしまいます。彦根藩井伊家初代・直政のお父さんです。
そこから井伊は没落してしまいますが、女領主とされるあの直虎さんが、直政を救い、井伊家を守り、立て直してゆくのです。
だからこそ、大河ドラマの主役にもなれちゃう訳ですね。
先ほど軽く書きましたが、徳川四天王。
江戸幕府は、徳川将軍が政権を持ち、その下に家臣が居ますね。家臣は大きく親藩、譜代、外様と3種類に分けられます。
譜代というのは、古くから徳川家康に仕えていた家臣たちのこと。
徳川四天王の内、井伊家だけ三河武士ではない。正しくは〜とか書いてると、先に進まなくなりますので、前の話を頭に入れつつ読んでください。
井伊家は、元々『井伊谷』静岡県浜松市あたりを治めていました。国司ですので、四天王の中では身分が少し上です。
そこから武功を挙げ、譜代筆頭なんかに抜擢され、遠江(とおとうみ)から、京都に近い近江(おうみ)に城を築いちゃう訳です。
あとがき
徳川四天王の中でも、一番高い石高を与えられた井伊家。
バッチリ聞いてきましたが、長くなってしまったので一旦区切ります。
石高の推移、面白いですよ〜💰✨
私の学びにも、井伊家と彦根城の面白秘話がありますので、書いていきたいと思います。
読者からの情報
徳川四天王の井伊
井伊直政は外様ながら家康の側近中の側近。小姓として宿直も努め、本能寺の変の後の伊賀越えでも体をはつて家康守りました。四天王と呼ばれる所以。
彦根井伊家のすごさ
徳川四天王の井伊直政と彦根城❗
楽しく読ませていただきました😃私は石川数正(松本城)が秀吉に寝返ったのは知ってますが、それで酒井忠次(吉田城)が徳川四天王に入ったのは知りませんでした、普代大名のなかで本多忠勝(大多喜城)、榊原康政(館林城)と考えるといかに井伊直政の彦根城(35万石)が凄いかが解りますね🎵しかも琵琶湖の重要な中山道に築いてますから
伝えたいこと
石川数正が、豊臣に着いた。その前に一気に参加したりしてます。いずらさなのでしょうか?豊臣秀吉に松本城をもらったからでしょうか?石川に入ってもらいたかったです。大老は最初に松平正之(会津)がなりましたが、5人位しか大老はいません。その他は井伊です。彦根は交通の要所ですし、彦根にいるだけで、近江商人が金を稼ぎます。米も取れます。今の首都圏は重宝されますが、昔は富士山から東の地は、富士山噴火で作物が育たない、東北は雪がヒドイ、明治維新は全て西の大名と言って良いほど、西の文化です。明治の教育も全て、嘘です。今の日本史の教科書は8割嘘です。怖い世の中です。士農工商なんて、正に嘘の代表です。そんな言葉は明治に作られました。教科書では学ばない❗自分で感じると、井伊の殿様は必死で江戸文化を残し、徳川も残したかった❗井伊は素晴らしい❗
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