不忍池にまつわる怪談話、そして歴史を書いてみます。
わたしのこと
不忍池の怪談
上野戦争は、旧幕府軍の放った砲弾が不忍池に落ちて水しぶきをあげたことが発端。
大義を持って死すが
相手方は最新鋭の兵器を装備、一方で彰義隊士らは昔ながらの刀を持って戦に望みました。
勝負は新政府軍の圧勝に終わります。
時代や死を受け入れられない侍たちの魂は、時代が変わっても消えることはありませんでした。
この戦で一番の激戦地となったのは 黒門 です。
(最近では旧幕府軍こそ、最新鋭の武器を持っていたと言われていますが・・)
銃の音が聞こえる水場
激しい戦が行われた場所、黒門の跡地 ☟
(立札より)
この壁泉は、かつてこの地にあった「黒門(くろもん)」の姿を表現しています。
「黒門」は、寛永寺の総門です。かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内でした。公園入り口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があって寺の正面入口となっており、その先に「黒門」がありました。
幕末の上野戦争で、最も激しい戦闘が行われたのは、黒門付近です。戦いは主として銃撃戦でした。そのため、黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。焼け残った黒門は明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築されました。円通寺には彰義隊の墓所があり、黒門とともに幕末の歴史を今に伝えています。
目撃情報、どんな幽霊?
この辺りは京成上野駅の隣に位置しており、夜も人通りが多い場所です。
しかし不思議な現象が。
花火をやっている訳でもないのに爆音が聞こえるのです。
バンッ、ガラガラ、パチパチ・・ と音がしてきます。
周辺を散策しても何も見当たりません。
激戦の時に使われた砲弾の音ではないか、
彰義隊士はまだ戦いを続けているのではないか、と考えられています。
☝ コチラもどうぞ
不忍池に伝わる音
不忍池での水しぶきがこの戦闘開始の合図となったのは、前述のとおり。
未だ、何も無いのに不忍池で水しぶきが上がったり、鬨の声(戦の掛け声)をが聞こえるそう。
私は体験したことがありませんが、爆音や鬨の声を聴いたことのある人は何人か身近に居ました。
そんな時は自分ではなくなったような気持ちになり、、、
悔しさがこみ上げ、感情が抑えきれなくなるそうです。
彰義隊、無念の死
慶応4年(1868)、旧幕臣たちの義勇軍・彰義隊は上野山で新政府軍に敗れました。
その死骸は見せしめのため 晒され、腐敗した遺体はずっと放置されていました。
2年後ほどして、見かねた円通寺(南千住)の和尚が死骸を火葬(荼毘に伏す)します。
しかし、彰義隊士たちは無念の死を遂げ、悔しかったのでしょう。
幽霊の目撃談が相次ぎました。
彰義隊の墓
江戸幕府十五代将軍 徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征群 (官軍) や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(1868年)二月に同盟を編成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退穏後も徳川家霊廟の警護などを目的上野山 (東叡山寛永寺) にたてこもった。
慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征群は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
正面の小墓石は、明治二年(1869年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(1881年)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会/立札より)
霊を鎮める西郷隆盛像
新政府軍に対して反乱を起こした西郷隆盛の銅像。
墓にお尻を向けていますが、先導しているようにも見えます。
彰義隊の魂を鎮めるため、とも言われています。
彰義隊士たちは、己の信念を貫き、最後まで幕府の家臣として戦って散りました。
成仏出来ぬまま上野をさまよい、死後も尚、戦っているのでしょうか。
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