あとがき
鹿児島の郷
さて、太平洋戦争時。
日本軍が通信手段として使った『鹿児島弁の暗号』
ドイツ日本大使館 ⇔ 日本外務省 の間でのやり取りを傍受されても解読されないよう、鹿児島弁を暗号としてつかったのが、この作戦です。
鹿児島出身の男たち
カジキさん、ヨシトシさん、ヨシトシの親父の3人について、補足します。
ドイツ日本大使館に駐在していた 曾木隆輝 は、加治木町の出身。日本外務省に居た 牧秀司 は、吉利村の出身。野村中将も、この牧と同郷です。
そのため、「カジキさん」「ヨシトシさん」と伝え合っています。
アメリカ軍情報部。
はじめのうちこそ鹿児島弁は理解不能でしたが、2ヶ月で解読可能になります。
なぜなら、伊丹明 という鹿児島出身の人物が居たためです。
彼の両親は、曾木と同じく 加治木町の出身。
伊丹明の父は薩摩隼人、郷土を愛する気持ちは人一倍強い。
息子にも日本人としての誇りを持たせたい!と、鹿児島へ留学(?)させました。
鹿児島の教育
そして、鹿児島には 郷中教育 というのがありまして。
歳の近い先輩方が、後輩に指導するのが慣わしです。
この歴史はとても古く、400年前の島津義弘(関ヶ原ごろの人物)の祖父・忠良の教えとして伝わっています。(日新公いろは歌)
15歳までを 稚児(ちご)、24歳までを 二才(にせ)、それ以上を長老(おせ)という独特な呼び方も面白いですよね。
この教育は、薩摩藩ではなく、郷ごと独自に行われます。
あの西郷隆盛と大久保利通は『同郷』で『郷中教育』を学んできた仲です。
この教育で育まれる仲は、とても深いのです。
西南戦争で、友である西郷を撃て!という指令を出した大久保。
薩摩隼人にとっては他の土地よりももっと、、、
深く悲しい思いがあったのではないかと思います。
悲しい、人間ドラマ
伊丹明は、曾木隆輝の後輩でした。
伊丹は、曾木から学び、曾木に相談し、お世話になった尊敬する人物。
日系二世というのは、太平洋戦争時のアメリカにおいて、立場の弱い存在でした。
暗号解読に協力したものの、伊丹は苦しみ、39歳で拳銃自殺を遂げてしまいます。
ちなみに私、このフロントマンに『郷中教育』についても質問しています。
「あー、確かに先輩後輩の付き合いはあるかな~」みたいな返事をされていました。
みやび拝
読者からの情報
大隅半島の魅力もお忘れなく!
鹿児島市出身です。知覧は有名ですが、鹿屋の海上自衛隊基地内にある資料館はお薦めです。知覧の遺品といった資料展示室+現在の自衛隊の装備品などもあってボリューム満点です。きっと子供まで楽しめます。日本海軍の歴史についても学べます。呉のヤマトミュージアム前はここが一番充実してたんじゃないでしょうか??太平洋戦争についての遺構(地下通信基地や弾薬庫など)も大隅半島の方が薩摩半島より数多く点在してると思います。残念なことに、大隅半島は知覧方面にあるような武家屋敷や指宿温泉などこれといった観光地がないため本当に好きな人しか訪れないでしょう(😣)しかし、最近道路網も整備されずっと近くなりましたので是非、いかれて下さい!加治屋町は母校もあり、あの辺りの道は冬の体育授業・持久走のコースのためキツい思い出しかありません( ̄▽ ̄;)地元民て結構そんなもんです(笑)ちなみに焼酎霧島は都城市で宮崎県です(笑)
薩摩の男女
鹿児島弁のイントネーション
米軍の力
吉村昭の深海の使者は高校の時読みました。ジェット戦闘機やロケット戦闘機の設計図も持ち帰ったそうです。コンバットという戦争ドラマで米軍がアメリカの先住民(いわゆるインディアン)の言葉で無線通信してたのと似てますね。「チェックメイトキングツー、こちらホワイトヘッド!」なんて会話です。(コンバットなんていうと歳がわかるな。笑)
チェスト関ヶ原
◉薩摩の幕末気風――「郷中教育」の話は織豊期の新納 忠元(ニイロタダモト)公の時代まで遡ることになりますね。実際は江戸時代につくられたものの、その原型は新納忠元公時代には既にあったという「二才咄格式」。
◉Webに現代語訳が記事になっていました。
・武道が第一である。
・武士道の本義を油断なく実践せよ
・用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな
・何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である
・仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ
・グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである
・嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし
・忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である
・山坂を歩いて体を鍛えよ
・髪型や、外見に凝ったりすることが二才(薩摩の若者)なのではない。
万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。この事は部外者には判らぬものである。これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才と呼ぶ資格はなく、軍神にかけ、武運尽き果てることは疑いがない。
◉文禄慶長の頃、壮年が外征したため、忠元公が二才衆(ニセシュウ=青年)をして「咄」(ハナシ)という組をこしらえたそうです。はじめは「咄」の青年だけ。「咄」が江戸時代中期頃から「郷中」となって稚児衆(チゴシュウ=少年)もその中に入ることになった・・・薩摩出身の歴史小説大家 海音寺潮五郎が著書で語っておられます。
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