【滋賀県彦根市】井伊直弼を訪ねて⑲天寧寺 / 五百羅漢堂、天寧寺彦根、桜田門外の変、井伊直中、若竹

旅行と歴史

わたしのこと

みやび ひまり (雅 陽葵) と申します。

井伊直弼を訪ねて、彦根へ行きまくり ٩( ”ω” )

先日書いた、この話。

【滋賀県彦根市】井伊直弼を訪ねて⑦ / 村山たか、埋木舎、彦根御前、井伊直中、若竹、天寧寺
幕末好きな私は、歴史を巡る旅を続けている。 特に江戸時代の終焉、ペリー来航から西南戦争あたりへの関心が高い。 わたしのこと みやび ひまり (雅 陽葵) と申します。 旅行好き、歴史すき、本スキッ ٩( ”ω” ) ...

子を宿し、産むことなく斬られた若竹。彼女の御霊は、この寺に在るのだろうか‥

彦根を訪れたワケ

彦根を訪ねるのも、2回目となる。

井伊直弼を育んだ『埋木舎』を見たいと熱望し、前回はそれだけを見に行った。

そして東京の自宅に戻り、彦根を調べると、また行きたい!と思うようになってくる。

居ても立っても居られず、私は次の月にまた、彦根を訪れた。

彦根城を見に、そして 天寧寺 を拝観するために。

天寧寺とは

この寺には、どんな逸話があるのか。時を遡り、江戸時代に戻そう。

井伊直弼の父・直中の侍女である『若竹』が、どこぞの子を身籠った。直中は不貞を許さず、若竹を成敗。彼女はお腹の子と共に、短い生涯を閉じた。

誰の子なのか‥ 若竹はそのことを伝えることなく、死の運命を受け容れたという。そして、直中は知る。若竹は、自身の長男・直清の子を宿していたのだと。

元々の寺は、宗徳寺 という名前で、彦根藩初代当主・井伊直政が実母の供養のために建てたもの。

直中の戒名は『観徳院殿 天寧 宏輝大居士』という。おそらくは直中の死後、寺の名前を改めたのではなかろうか。

仏教と直中

直中は、歴代彦根藩主の中でも、とりわけ仏教心の厚い人物だった。

寺院への援助を惜しまず、世田谷の豪徳寺、彦根の清涼寺、仙琳寺も直中の尽力によって発展した。

井伊直弼は、父・直中のことをこのように記している。

【仏道 発心の弁】

私は大御父君(直中)が世を去られるまで御元にあって、多くの兄たちがいる中でも、特に情愛を受け、大御心ほどもくまなく知っている。

まずは仏法への御帰依が尋常ではなく、年をとられた後は、そのお気持ちがさらに強まった。自分が五つの年に亡くなった大御母君(富)は、父とともに御帰依が深くいらっしゃった。

つらつら思うに、過去のたくさんの御恩は、山よりも高く、海よりも深い。このことにより、大御心の御本意を継ぎ、いささか帰依する事は寸考にあたるだろうと思っている。

(井伊直弼のこころ ー百五十年目の真実ー より)

このような人物だから、息子の嫁と孫を成敗して、罪に苛まれたことだろう…

彦根の道案内

もう日暮れ間近だが、私は歩いて、天寧寺へと向かうことにした。

スミマセン、天寧寺へ行きたいのですが

駅に居た女子高生2人組に、声をかけてみる。地図を確かめると駅から天寧寺は、そう遠くない。

えっ、天寧寺‥ あの坂道いっぱいのトコですよね? えっと‥ この道を真っ直ぐ行って

彦根で、私が道を聞くこと5回目。彦根の女性はとても親切だが、道を説明するのが下手という印象がある。

土地勘の無い関西で、私も数え切れぬほど道を尋ねた。京都の人は誰に聞いても正確に教えてくれる一方、大阪の人は道を知らずとも教えてしまうので誤った道を行くこともしばしば‥

彦根では、一般的な移動手段が車のせいか、○○へ行きたいというと、地元の人は一瞬ためらった顔をする。私も、いわゆる観光スポットではなく、随分と渋好みなエリアを訪ねているからかもしれないのだが。

広い道路に面したコンビニで、飲み物を買ったついでにまた、道を尋ねてみた。

信号を左ですわ。もし分からなかったら、その辺でも聞いてみて~

ごめんね~ごめんね~、と言いながら、腰が低く柔らかく、丁寧に説明してくれる。近江商人の血だろうか。

きっと、アレが天寧寺だ。

地元有志による大まかな道案内と、道案内アプリを駆使し、なんなく?天寧寺が見つかった。

女子高生が教えてくれた通り、天寧寺は、坂にある寺だった。

緩やかな坂だから、それほど歩いても苦にならない。ちなみに、ここは「里根山」という。

後ろを振り返ってみる。彦根駅から天寧寺まで、1.3㎞ ほど。地図アプリで見る時には「天寧寺 五百羅漢堂」まで入れないと、違う都道府県で検索がかかるので、注意してほしい。

天寧寺を歩く

五百羅漢を見たかったけれど、閉堂間近のために断念。

亡き親、子供、いとしい人に会いたくば、五百羅漢にこもれ

こんな言い伝えもあり、自分の探し求める人の顔が必ず見つかるそうだ。

今回の旅では、いとしい人を探す事は叶わなかったが、それでも一見の価値あり。ここには井伊直弼、長野主膳、村山たか、3者の碑がある。

井伊直弼の供養塔

井伊直弼といえば、井伊の赤鬼として恐れられ、暗殺されてしまった人物。

だけれども、彦根の人にとっては『英雄』なのである。

桜田門外の変で撃たれ斬られた井伊直弼の血を集め、遠く彦根まで持ち帰り、この天寧寺に供養塔を建てた。それがコチラ ☟

桜田門から天寧寺 五百羅漢堂まで、中山道で 450kmほど。直弼の血が染み込んだ土を、わざわざ彦根へ運び、供養し‥ 四斗樽四つ分(72L×4つ)というから、相当重い。

この話ひとつとっても、直弼を失った家臣らの無念が伝わってくる。

寺からは、キラキラ輝く琵琶湖が一望できる。

この美しい山から、直弼も彦根を見守っていることだろう。

ちょっと、おさらい

桜田門外の変は、1860年

権力を握った大老・井伊直弼が、大がかりな弾圧を行い、恨みを買い、暗殺されてしまった。

そして、文久の改革が、1862年

安政の大獄で処罰された者を赦免、一橋派が政治のトップに立った。(政事総裁職:松平慶永、将軍後見職:徳川慶喜)

こうなると、井伊直弼は諸悪の根源。表立って供養するなど叶わなかったことだろう。彦根へ持ち帰りたい気持ちも分からなくない。

長野義時の墓

長野義時については、詳しく書きたいので割愛。

あとがき

仏教には5つの禁止事項があり、このようなもの。

【五戒】
不殺生戒:殺してはならない
不偸盗戒:盗んではいけない
不邪淫戒:不貞をはたらいてはいけない
不妄語戒:嘘(妄言)をついてはいけない
不飲酒戒:飲酒をしてはいけない

不邪淫戒(不貞をはたらく)に問われた、若竹。

けれど、さらに重い 不殺生戒(殺す)を決めたのは、直中。

この時の判断は、いつまでも彼を苦しめたのかもしれない。

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