わたしのこと
事件は現場で
初めて、桜田事変 の現場を訪れた日のこと。
日比谷を出発し、永田町から麹町までの長い距離を歩いた。
はて?目的地にたどり着けぬのは何故だろう?
桜田門前の地図には『井伊掃部頭邸跡』とあるのに、目印が無い。
ふたたび歩いてみるも、行けども行けども井伊家の史跡に行き当たらない。
目的の彦根藩邸は何処にあろう?
井伊家の上屋敷跡
彦根藩の江戸上屋敷、現在のその場所は『憲政記念館』になっている。
この史跡の無さ。桜田事変後の風当たりの強さを物語っているようだ。うーむ。
桜田門外の変、その後
桜田事変後、大老亡き彦根藩。
どのような歴史を辿ったのか、ザックリと探ってみよう。
1860年 桜田門外の変
大老であり彦根藩主の『井伊直弼』が、水戸浪士&薩摩藩士によって暗殺された事件を指す。
桜田事変の顛末
目撃者多数のこの事件、前代未聞の大老暗殺。
衝撃的な出来事ゆえ、口コミの広がりはコロナの如く。
しかし幕府はこの死を認めず、大老は病気と偽った。
長く続く武家の『祖法』を守り、かつ 彦根藩を潰さぬために必要なことがある。
大老が生きている内に、跡継ぎの届け出を出すこと
それを実行せんと、幕府。 大老は生きているとした。
「首を切られた者が生きている」など、江戸の民は大笑い。
彦根藩を潰さぬよう『まるく』治めたはずの幕府。
こうして、幕府の権威は失墜。大政奉還へと突き進んでゆく。
彦根藩、その後
井伊直憲公、この時13歳。
側室腹のため、彦根藩では世子の届出をしていない。
大老没のこの当時、正妻・昌子はまだ25歳。
お輿入れから、僅か6年。
アレよ荒れ世と余(大老)が動き、子作りも儘ならぬまま夫は帰らぬ人に。
井伊直弼、何を思う
この世直し大老は、祖法にこだわる故の断罪を行った。
結果、大老の死後は残された者が『偽りの祖法』で井伊家を守ることに。
何たる、歴史の皮肉!
井伊家を守り抜く
元の35万石といえば、身分違えど水戸家と同様。
とてつもない大大名である。
これだけの収益をあげていた筆頭譜代の家。
だが、桜田事変で失ったものは藩主の死だけに止まらない。
250年守り通した石高も、容赦なく減らされてしまった。
さて、幕府が認めた井伊大老の子息。
大老の忘れ形見、若き直憲公を支えたのは国家老・岡本半介。
時勢を見つつ、何とか維新を乗り切り、井伊家の存続に成功。
しかし、天皇を中心にした世 に移り変わっている。
死人に口なしとは、よく言ったもの。
大老・井伊直弼は、勅許のない条約を結んだ不忠の臣下としてレッテルを貼られてしまうことに。
1868年 明治時代へ突入
薩長政府は、ここに参謀本部や陸軍省を敷いた。
安政の大獄
大老の権力は、御三家をも凌駕する。
窮鼠 猫を噛む。余談だが、井伊家と猫の縁は深い。
彦根のゆるキャラ・ひこにゃんも猫、菩提寺も招き猫発祥と言われている。
鼻の長い化け物となった水戸藩士ら(天狗)は、赤猫を撃つ。
御三家の中でも水戸家は特殊で、天皇を拝する勤皇の家である。
この水戸がなぜ、明治政府の柱とならなかったのか。
私は、憲政記念館を歩きながら、大老の死と彦根藩・奮闘記を頭に思い描いていた。
口惜しさを残しつつ、②へ続く。
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