前回の『埋木舎⑴』では、「井伊直弼」から安倍内閣と阿部改革(老中・阿部正弘)を挟んで書くつもりであった。
元を辿れば、先週の彦根の旅で知りたかったのは『井伊直弼の人物像』である。埋木舎を訪れ、私が感じたことを気の向くままに書いてゆこう。
政治を論ずるには、まだ力量が足りぬ。
わたしのこと
将軍継子問題
前置きは長くなるが、まず歴史に触れてみる。
1858年、徳川の14代将軍を誰にするか?と議論がなされた。
時の13代将軍・徳川家定。
黒船来航の19日後に父将軍が没し、御世は5年。
世継ぎとなる子が居ないのに、死までの1年間は明日をも知れぬ病床の身だった。
井伊直弼を筆頭にした譜代大名らは『南紀派』という。
次の将軍にはわずか4歳で紀州藩主となった、徳川慶福(後の家茂)を支持する。
問題提起の頃はまだ『譜代大名筆頭、彦根藩主・井伊直弼』
彼が、大老として力を奮うのは後のこと。
この対抗馬に水戸・徳川斉昭と外様大名らを含む『一橋派』が名乗りを挙げる。
当て馬となった人物は、最後の将軍として朝廷に政権を返上する一橋様こと、一橋慶喜(最後の将軍)。
南紀派(幕府保守派) VS 一橋派(幕府改革派)
アベの改革、はじまる
日本の危機迫り、老中首座・阿部正弘の幕府改革が始まった。
日本を脅かす海外の猛威は留まることを知らない。
幕末、この “阿部ノミクス” を支持するものは多かった。
【一橋派】
薩摩・島津斉彬
越前・松平春嶽
土佐・山内容堂
宇和島・伊達宗城ら。
海に囲まれた日の本の藩の大名は、一橋を推進する。
そして徳川御三家の水戸藩主・徳川斉昭。
『水戸から将軍』を輩出したい気持ちは人一倍強かっただろう。
慶喜の出自
慶喜は、この斉昭の正室の次男として生まれた。
さらに、斉昭の正室は公家の出。
武家と公家の高貴な血筋と、聡明さを併せ持つ慶喜に、周囲の期待は高まる。
慶喜は望まれるままに徳川御三卿・一橋家の養子となり、12代将軍・家慶からもたいそう可愛がられた。
阿部、死す
しかし結果は、井伊直弼ら『南紀派』の勝利。
14代将軍に徳川家茂、15代将軍に徳川慶喜が座ることとなる。
三本の矢を整える暇なく、阿部正弘は病没する。享年38歳。
埋木舎を見つめて
この歴史の先に、私の『埋木舎』への思慕がある。
彦根へ訪れ、城と埋木舎を眺め、私は井伊直弼という男の生き方を振り返ってみた。
トントン拍子に上がってゆく、その責任の重さは計り知れない。
慶喜の「余生」
たとえば、徳川慶喜。
江戸幕末の大政奉還・戊辰戦争を経て、この徳川最後の将軍は明治では政治の世界に召集されていない。
隠遁生活となるが、慶喜はまだ30代の若者である。子作りに励み、趣味の世界にも没頭した。
ストレスから解放されたせいか、そこそこ長生きし、天皇陛下への拝謁も叶え、この世を去っている。
この慶喜は、こうなればどうする・これならどうすべき、といった処世術を理解し過ぎていた。
世間が彼を認めずとも、彼が彼を知り抜いていたように思う。
幸せな生き方とは
男は趣味に生きるもの。
ライフワークバランスが叫ばれる今、現代社会の男性など仕事のみに生きる者の方が珍しい。
重責から外れた彼は、手元の幸せに気づけない男ではない。
さて、井伊直弼の『埋木舎』へと戻ろう。
藩主として、大老として
茶歌鼓(チャカポン)と呼ばれた男は、きっと藩主となる自分を夢見ていたことだろう。
巡り巡って藩主となり、この幕末の大老となり、彼は本当に幸せだったのか。
井伊直弼を作り上げたのは、彼自身の持つ野心なのだろうか?
井伊直弼の才能
埋木舎の生活で、井伊直弼の励んだ茶道・和歌・雅楽など。
深く広く、男の趣味そのものに見える。
彼の才を持ってすれば、国政に参加することなく埋もれても、文化人として名を馳せたかもしれない。
彼には、この埋木舎で趣味を語り合える女性の存在があった。
世間から埋もれて、恋にうずもれて… 次回は、埋木舎での蜜月に迫ろう。
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