【鹿児島県鹿児島市】西郷洞窟 / 旅行記:西郷隆盛、西南戦争、心霊スポット、オカルト

国内旅行:鹿児島県鹿児島市

城山・岩崎谷・西郷洞窟物語

中に、こんな物語が掲げられていました。ぜひ皆様にも ☟

「城山・岩崎谷・西郷洞窟物語」 山田 尚二

明治十年二月 一万五千人で出発した西郷軍は 九月一日 僅か四百人になって帰って来た。

政府軍はすぐさま西郷軍を追って 続々 鹿児島に結集してきた。

西郷軍は、二百九十人の兵を一番隊から十三番隊と狙撃隊を分けて 城山に立て籠もった。

四・八・九番隊は欠番だったが それは死・破・苦の音を避けたのだろう。城山を取り囲んだ政府軍は八旅団・一艦隊の六万人余であった。それは第一、第二、第三、第四、別働第一、別働第二、新選旅団、熊本鎮台、川村艦隊であった。

西郷は九月六日から十日までは野村宅後の洞窟に十日から十三日までは 馬乗馬場の鹿柴に米粟の俵を積み 上に杉葉を葺き 雨露を凌いでいたが 十三日から十九日まで再び野村宅後の洞窟に移った。

この頃になると政府軍は一日七〇〇発以上の砲撃をするようになった。そこで現在の岩﨑谷の洞窟の所に十九日に新たに一洞を掘って移った。これが今日の西郷洞窟である。

近くに九ヶ所 洞窟があり 桐野利秋、村田新八ら幹部や本営の評議所となっていた。

九月十四日 西郷は下僕の池平仙太を呼びつけ 暇を与え 西郷家(イト夫人の所)に帰るよう命じた。

仙太は城山に残りたいと願い出たが 西郷は赦さず帰る支度を命じた。 仙太は帰り支度を終え 西郷に従った。

「先生の品物の中に名刀三振りと金子 二万三千円余りがあります。 何を持って帰りましょうか」

西郷は「名刀一本だけ持って帰れ 後は残しておけ」と云った。

仙太は「二、三千円ぐらい持ち帰り御方様に差し上げたら」と申し出たら

「馬鹿奴っ!この金は 自分の手許金ではあるが 私学校の軍資金だ」と一喝した。

仙太は「どの道から出られるか」聞いた。

西郷は「この山を西に向かって草牟田に出て 西田方面に出たら まだ道があいている様子だ」と言い聞かせた。

仙太は西郷の指示に従って無事 城山を脱出した。政府軍の城山包囲網は 十四日まではまだ未完成であったのである。政府軍の総攻撃が近づいた二十二日 西郷は隊員 二百九十名の名簿を清書した。

死んでいく者の名前だけでも残そうと考えたのであろう。

幹部の名は書かなった。(←原文ママ)

政府軍は城山攻撃隊を各旅団から選抜した。それは第一次八百人 第二次九百人からなっていた。

九月二十四日 午前四時 号砲を合図に政府軍選抜隊は総攻撃を開始した。

西郷軍は第一旅団、第二旅団、第三旅団、第四旅団、別働第一旅団、別働第二旅団、新選旅団、熊本鎮台兵の圧倒的兵力、火力の前に次々と壊滅していった。草牟田から進んだ別働第二旅団がいち早く岩﨑谷の陵線上に達した。岩﨑谷口は第四旅団が保塁や暫壕、竹棚を廻らし、水も漏らさぬ警戒線を敷いていた。政府軍の各隊が岩﨑谷ににじりよって来た。

西郷軍は各所で突っ込んで行ったが、皆、銃弾で射抜かれたり、銃剣で突き殺されたりした。

「降参」といって手を上げる者も多かったが東北出身の兵は、戊辰戦争の仇討ちということで構わず撃ったという。

午前六時過ぎ 桐野・村田・池上・別府・辺見ら幹部と各方面から退却してきた者たちが岩﨑谷の洞窟前に集まった。縞の単衣の筒袖に白縮緬の兵児帯を締め山かけ脚絆に新しい草鞋をつけた西郷はおもむろに洞から出て一語も言わず 岩崎谷口の方へ歩きはじめた。道は細く西郷らは一列となって下りはじめたが 山陵から集中砲火をあびることになった。

一同は三々五々に分れて走った。

桂久武が最初に被弾して倒れた。

島津応吉邸門前(岩﨑谷荘北隣)まで来た時、西郷は大腿と左脇腹に弾をうけ どっかと座り込んだ。

西郷は別府普介に「普どん こゝで よかろう」と言い 切腹もせず介錯させた。

午前七時であった。

西郷の首は 折田正助の門前の溝の中に埋めかくされた。

「先生が死んだ」と大声がこだまして 桐野利秋・村田新八・池上四朗・辺見十郎大・山野田一輔・高城彦之丞ら 四十余人は 岩﨑谷口の保塁に突進し その前の凹地で枕を並べて玉砕した。

午前八時であった。

この戦いで 西郷と共に死んだ者 百六十人

傷つき 捕虜になったもの 二百人であった。

政府軍は道路の傍で西郷の死体を発見したが、その首はなかった。

そこで第四旅団に降伏した捕虜を詰問し 漸くかくし場所を知り

午前九時 第四旅団 遊撃隊の兵卒 前田恒光が発見したという。

その時、三好少将が乗馬で駆けより

「決して 無礼な挙動をするな」と言いつけ 急いで帰り 山県有朋軍に報告した。

山県参軍は 竪馬場の本営でその首を丁寧に水で洗わせ 諸将に向って

「西郷翁の顔は 実に穏和ではないか。

二百日余も自分に安心する いとま を与えなかったのは翁である。

今やっと自分は安心することができる。

しかしながら 翁は天下の豪傑である

そして自分を知る者 翁以上の人はなく

翁を知るものも自分以上のものはない。

残念なのは 翁を今日の状態にまで追い込んだ時勢の流れである」と言い

しばらく その霊に黙祷を捧げていたという。

正午すぎ 一天 にわかに かき曇りしのつく雨が城山一帯を襲った。

豪雨が忽ちにして 西郷軍の血まみれの死体をきれいに洗い流してくれた。

平成五年七月十六日 (筆者は西郷顕彰館々長)

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