【京都府京都市】京都を歩く① ヤマちゃんと高山彦九郎 / 三条駅前、三条大橋、駅伝発祥の地、草莽崛起、太平記

旅行と歴史

わたしのこと

旅行と歴史をこよなく愛する みやび ひまり (雅 陽葵) と申します。

関西のヤマちゃん

関西で知り合ったヤマちゃんは、歴史仲間である。皆を笑わせるのが好きで、明るく優しい。

そんな彼と初対面の時に話したのは、高山彦九郎のことだった。

「風雲児たち(歴史漫画)で読んで、京都の高山彦九郎の像を見たなってな」

このヤマちゃんの風貌は、どことなく高山彦九郎に似ている。

引き締まった体型、銅像とはほぼ同世代、髪が薄いのではなく自主的な坊主頭‥だよね? と思わせるところなど。

相違点と言えば、高山彦九郎はしかめっ面だが、ヤマちゃんはいつも優しい表情をしている。

もちろん私も、この高山彦九郎の像を見に行った。

京阪電鉄の三条駅前にある。とだけ書くと、面白味が無いので少々書き足したい。

京都という町は、京都御所を起点に一条、二条、、と南下してゆく。御所とほぼ平行に鴨川が流れていて、祇園四条、清水五条、八条に京都駅がある。

この三条にも鴨川を渡る橋が架かっていて、かの有名な三条大橋。

東京・日本橋と繋がった東海道の終着点で、駅伝発祥地としても知られている。

東海道は日本橋からスタートして、品川の宿が1つ目。そこから滋賀県大津の宿まで53の宿が東海道間にある。

私がはじめて三条大橋を訪れた日など、東海道五十三次だぁ!とはしゃいだものだ。

高山彦九郎の像は三条大橋から見える位置にあり、橋から駅に向かってゆくと大きな土下座姿が見えてくる。迫力あるそのいで立ちは、慣れていないとギョッとしてしまう。

三条駅付近で待ち合わせする時は、「土下座前で!」の言葉が定番らしい。この高山彦九郎の像はとにかく目立つ。

渋谷のハチ公像が目立つか? と言ったらそうでもないけれど、高山彦九郎の像は大層インパクトがある。

その衝撃的な銅像・高山彦九郎の人生を辿ってみよう。

彦九郎は、京都ではなく群馬県太田市の出身である。

『太平記』という南北朝時代の軍記を読んで感動していた彦九郎少年、13歳。

祖母から主要人物の南朝・新田義貞お抱えの新田十六騎のひとり高山重栄が自分たちの祖先であると聞かされ、「新田は尊王の志厚い人物。祖先に報いるのは、自分も尊王になることだ!」と思い立つ。

尊王の彦九郎。銅像が一体誰に土下座をしているのかというと、京都御所の帝に向かって遙拝しているのだ。

遠く群馬から、初めて京にのぼったのは18歳の時。帝の御座す都にやってきた彦九郎は、少し離れて跪く。

そして約100年後、彦九郎の尊王論が江戸幕末期の志士たちに多大な影響を与えることとなる。

長州人を語る時、草莽崛起(そうもうくっき)という言葉があるけれど、元を辿ればこの彦九郎が「草莽の臣」草莽=民間、その中にあって忠誠を尽くすと唱えていたのだ。

時の長州が排出した志士とは、吉田松陰の思想が基となっている。その松陰の名も、彦九郎の戒名を取って名付けたほどの思い入れがあるわけで。

明治の政治を担い、その後の日本を創り上げた人物たちの根幹がここにあるのなら、やっぱりここが原点になるのかな、なんて考えてしまう。終着点か、起点か。

これほど深い、高山彦九郎。今では「土下座の人」としてしか知られておらず、少し心配になってしまう。大丈夫か、日本!

そんな私も、山ちゃんから聞くまで彦九郎を気に留めていなかった。ふとカレンダーを見ると、明日は選挙の日。娘を連れて選挙へ行こう。国を憂う気持ちを持ち続けていたい。

そんなワケで、どうぞ高山彦九郎を知ってください(笑)

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