藤田東湖を巡ってみました! 今回、墓参りはありません・・悪しからず。
水戸駅からの道のり
さて、ピンクの可愛い駅から 出発します!
水戸黄門 御一行 を過ぎ・・
生誕の地までの道のり
駅からの大通りは立派ですが、裏路地に入ると閑静な住宅地といった印象。
平日だったせいか、人は見かけませんでした。大通りとは対象的です。
懐かしさを感じる坂道。
最近のアニメ―ション映画に出てきそうな雰囲気です。
飲み屋さんの裏手の坂を上がったところ。
ふと見れば 哀愁漂う 水戸の街 ~心の俳句~ 字余り
宿泊ホテルのそばに
さて、私の宿泊するホテル・みまつアネックス が見えてきました。
このすぐ隣に 協同病院 があります。
私は歴史散策をメインに旅をしますので、ホテルはいつも格安で泊まれる場所を選びます。宿泊先のみまつアネックス は 、宿泊客全員 朝食付き。風呂なし・トイレなし の誤表記で、かなり安く利用できました (笑)。
ご参考までに ☟
いよいよ到着
協同病院の陰に みまつアネックス。通り沿いに 藤田東湖 生誕の地 があります。
今回の水戸旅行初の史跡、『キターッ!!』って感じで嬉しかったです。
簡単に、戦後間もなく、水戸市に寄贈された地 と書いてあります。
慣れ親しんでみる
Twitter で反響のあった、藤田東湖 × 私 のE.T.
バズッた理由は不明、喜んでいただき光栄です。藤田東湖が人気なのか? E.T. が未だ人気なのか?
東京の東湖
参勤交代が免除されていた水戸藩。都内に藤田東湖の碑は、2つあります。
藤田東湖 護母致命の処(ごぼちめいのところ)
⑴文京区:水戸藩・上屋敷跡
天地正大気の漢詩碑
⑵墨田区:水戸藩・下屋敷跡
天地正大気・正気の歌 について
見やすいサイト
あとがき
勤勉な水戸の人
私の宿泊した みまつアネックス から 目的地まで、約2分。
すぐソコだっぺよ
実は私、とっても方向音痴です。
いつも道に迷うため、今回も不安になってしまい、上の地図 ☆印あたりで協同病院の警備員に道を尋ねました。
すると警備員「俺はこの辺のモンじゃねーんだよ」と水戸らしいイントネーションで答えます。
『どう聞いても茨城っぽい話し方ですね』と笑って反応すると
「おーうい(←この辺もう訛り)」と呼びかけ他の警備員に聞いてくれていました。
そうして3人くらいが集まって道を教えてくれました。
私の声が大きかったせいか、近くに居た協同病院の職員3人も声をかけてくれました。
「藤田東湖の碑は坂を下りたところ直ぐにありますよ」←訛りなし
協同病院の方は皆さん詳しくて親切。
私はこんな旅行や歴史のブログを書いていなければ、地元で道を尋ねられても答えられないかもしれないな~と考えてしまいます。水戸の教育精神!
水戸藩について
水戸は影響力ある藩なのに、明治維新の功労者なのに明治政府の要員には誰も入っていません。目立つ人達が多すぎたのか、天狗党への弾圧か。
藤田東湖とは
諍臣、藤田東湖
9代水戸藩主・徳川斉昭の諍臣として活躍。
東湖の名前
wikipedia には ”たけき” とありますが、私は墨田区押し。彪=ヒョウ の意味、カッコイイですよね! ”東湖”とは 剛 (ジャイアン) じゃなく号です。
学者の父・幽谷
1806(文化3)年、水戸城下(現・水戸市梅香)に藤田幽谷の二男として誕生。
藤田東湖のお父さん、水戸学の祖 となったすごい人物。父は藤田幽谷(ふじた ゆうこく) と言い 、古着屋さんの息子として生まれました。身分制度の厳しい江戸時代に、彼は商人の家柄だったんですね。士農工商の 商 です。
この幽谷さん、大変頭が良く、師匠(立原翠軒)からの後押しを受けて、水戸藩の誇る 大日本史 の編纂に携わります。そして才能を認められ、武士の身分をもらいました。水戸学を有名にした息子たちは広める役、実際はこの父・幽谷が水戸学の思想を深めたのです。
藤田東湖は父・幽谷から教育を施され、成長していきました。
尊王攘夷
藤田東湖を語る上でも重要な 尊王攘夷(そんのうじょうい) 。水戸学 と言えば まずはコレ。
尊王(そんのう)=天皇を尊び敬い
夷(えびす)=未開人(外国人)を
攘(じょう)=打ち払え
文武両道
藤田東湖は幼い頃から父・幽谷の開いた 青藍舎(せいらんしゃ) で学びます。
14歳で初めて江戸へ行き、武道にも熱を注ぎました。
この頃の江戸には外国船(黒船)が現れるようになっており、皆が国(日本) の行く末を憂いていました。
大津浜事件 (1824年)
イギリス人が水戸藩領地の海岸に上陸した事件。大津浜は現在の北茨城市にあります。
「船に病人が居る、もう食料や水も無いから補充させて~っ」とやって来たイギリスの船乗りたちに対し、水戸ではそもそも「夷狄 (いてき・外国人の意味) なんてやっつけてしまえ!」「日本に入れてなるものか!怒」 と思っています。
町人から報告を受け、若かりし藤田東湖 が現地へ行くこととなりました。
「おのれ夷狄め、切り殺してくれるわ!」と考えていた訳です。外国人を切って、自らも潔く死のうと決意するも、藤田東湖が着いた時にはすでに時遅し。外国船はもう去っていました。余談ですが、水戸藩は船乗りたちの補充を認め、食料等を与えて帰しています。
水戸藩士、特に尊王攘夷思想の学者である藤田東湖たちの心が穏やかでなくとも、この頃はまだ 異国船打ち払い令 (1825年) が出てなかったんですね。
水戸の三本柱
藤田東湖は、戸田忠太夫・武田耕雲斎と共に「水戸の三田」と呼ばれ、水戸藩主・徳川斉昭公を支えて、大きな藩政改革を行いました。水戸のサンタでなく、サンデンです。ミタでもありません
斉昭公 謹慎・藤田東湖 蟄居(1844年)
藩主斉昭公の謹慎に伴い、家臣の 藤田東湖 も蟄居を命じられました。
メゲない東湖、出来ることをやろうと決めて 執筆活動に専念しました。「回天詩史」「常陸帯」「弘道館記述義」などを残しています。藤田東湖 が自由になったのは、斉昭公 蟄居から8年後でした。
多忙な日々を送る藤田東湖の元へは、あの吉田松陰 や 西郷隆盛も学びに来たほど。彼の思想は多くの志士に影響を与え、後の 明治維新の原動力 となっていきました。
親孝行な息子(1855年)
儒学の教えのひとつに、「親を敬え」 とあります。
藤田東湖は安政の大地震で命を落としてしまいましたが、母を守って亡くなったと伝えられています。このことからも、藤田東湖は 儒学を重んじる水戸の模範として扱われました。
実は斉昭公、この震災で藤田東湖 だけでなくもう1人の重臣も亡くしているんですよね。それはまた次回。
震災について
この 藤田東湖 生誕の地 付近で、倒壊した建物を見かけました。
私はこの旅で出会った水戸の方にも色んなお話を伺ったのですが、東日本大震災は東北だけの被害ではなく、この水戸もあらゆるところで被害を受けたのだと知りました。☟ 未だ壊れたままの建物 (藤田東湖 生誕の地 すぐそば)
現代を生きる私達は大地震を目の当たりにし、その恐ろしさを知っています。江戸時代、幕末の大地震に遭ってしまった人々の恐怖も理解できますよね。安政の大地震で亡くなった藤田東湖。彼は 儒教に従った親孝行の模範と言われています。
『誰しも掛けがえのなきものを天災で失うは耐え難きこと』
大河ドラマの藤田東湖が 主君・徳川斉昭に諫言(かんげん)した、このセリフが忘れられません。
まとめ
・藤田東湖、名前は ”たけし”。
・千波湖の東、藤田東湖の生まれた場所へ
・私が泊まった格安ホテル。。の、すぐそばにあるゆかりの地。
・藤田東湖と戯れてみた
・東京の東湖を訪ねてみた
・震災の恐ろしさはいつの時代も同じ
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