【鹿児島県鹿児島市】平田公園 / 旅行記:平田靱負、宝暦治水

国内旅行:鹿児島県鹿児島市

「宝暦治水伝」みなもと太郎

幕末を書くなら、関ケ原の合戦から伝えなきゃ、面白くない!」と、みなもと太郎先生。

その言葉に、薩摩が 木曽三川の治水工事 を命じられたワケ がある!

関ケ原の恨み・・

1600年 関ケ原の戦い 西軍 (豊臣家) VS 東軍 (徳川家)

西軍の石田三成 薩摩藩主・島津義弘 を怒らせてしまいます。

そのため、薩摩は合戦を傍観。

さらに戦の勝敗が決まると、敵・東軍の陣地を突っ切り、薩摩に帰ってしまいます。

その武者ぶり・・結局、東軍の大将・徳川家は、敗軍の領地に手出しすることができませんでした。

薩摩から、領土を奪えなかった~~!!

ドッ (# ゚Д゚)イカリッ と、徳川幕府。 繰り返します。

薩摩はですね… 敗軍となりながら、石高を減らされることなく、一国マルッと死守 したのです。

関ケ原から、150年余・・

薩摩の力を弱めてやるぅぅぅっ! と、幕府は大変な難題を薩摩に命じます。

コレが、宝暦治水工事。

1754年 宝暦治水  薩摩、美濃の木曾三川へ

参考までに

風雲児たち 第30巻

平田靱負の覚悟

もちろん、イジメです。パワハラです。

どーんなに、理不尽でも、この絶対権力(=徳川幕府)には、敵いません。

戦か・・!? ってところまで追い詰められた薩摩藩。

そこを、平田靱負が諭したのです。

無縁の遠方の美濃の人々を救済する義務はないかもしれない。

しかし、薩摩も美濃も日本である。

幕府の無理難題と解釈すれば立腹するのも当然だが、同胞の難儀を救済するのは人間の本分であり、忍耐して工事を完成すれば、御家安泰の基礎となるばかりか、薩摩武士の名誉を末永く後世に伝承することになる

平田 靱負

そう言って、200億円の金をかき集めた 平田靱負

。・゚(゜´Д`゜)゚・。ワァァァァァァァンッ

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