火事
歴史上、幾度もあった災害にも耐え、今も日々多くの参詣者で賑わう舞台を支え続けています。
日本には「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがありまして、切り立った断崖に張り出している清水寺本堂の舞台から飛び降りるほどの覚悟で物事を実行する決意をあらわした言葉です。
清水寺の舞台が、古くから高層建築物の代名詞として日本国中に普及していたことがうかがえます。
これは、清水寺が観音霊場として庶民から篤く信仰され、親しまれていたため。
「清水の舞台」は今も昔も知らぬ人のいない名所なのです。
この舞台は清水寺の御本尊である観音さまに芸能を奉納する場所です。
古くから雅楽や能、狂言、歌舞伎など日本の伝統芸能がこの場所で演じられてきました。
現在ではその眺望の美しさがよく知られていますが、本来は景色に背を向けて本堂の最も奥にある内々陣に祀られている観音さまに向き合う場所です。
現在でも特別な法会の際には舞台奉納がおこなわれています。
創建以来、10度を超える大火災にあいそのたびに堂塔を焼失しましたが、篤い信仰によって何度も再建されました。
現在の伽藍はそのほとんどが1633年に再建されたものです。
1994年にはユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」のひとつとして登録されました。
として、古くから庶民に開かれ幅広い層から親しまれてきました。
古い史書や文学のなかには、多くの人々が清水寺参詣を楽しむ様子が描かれています。
清水寺の宗旨は北法相宗です。
清水寺は開創以来、奈良仏教の法相宗を宗旨とし、中世・近世においては法相宗大本山、興福寺(奈良)の末寺でした。
清水寺が北法相宗の本山として独立したのは1965年。
急速に変化する社会情勢に対応し、これからの時代に社会から必要とされる仏教を模索し続けた当時の清水寺貫主、大西良慶和上によって北法相宗が立宗されました。
「『北』法相宗」という名称には、南都と呼ばれた奈良に対して、北に位置する京都で法灯を掲げるという意味が込められています。
大西良慶和上は、その生涯を通じて「仏教の社会的活動」を掲げて観音さまの教えを実践した方でした。
老人福祉施設や児童養護施設の開設や運営、災害時の慰霊や復興ボランティアなど、公益のために尽力することが自身と仏教が担う使命だと考えておられました。
戦争の時代に生きた仏教者として平和を説き、社会的弱者に優しいまなざしを向け続けました。
大西良慶和上は109歳でこの世を去られるまで人々に観音さまの教えを説き続け、清水寺の中興の祖といわれています。
※ コピペ過ぎるので、ちゃんと調べて書き直します (汗)。
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