幕末好きな私は、歴史を巡る旅を続けている。
特に江戸時代の終焉、ペリー来航から西南戦争あたりへの関心が高い。
わたしのこと
桜田事変と私
中でも『桜田門外ノ変』には、ゆかり故の並々ならぬ思いがある。
歴史の当事者となるのは、薩摩と水戸の藩士らと、時の大老・彦根藩主の井伊直弼だろう。
私は、彼らの史跡をいくつか訪ねている。今度はとうとう滋賀県彦根市までやってきた。
出世街道をゆく
もうずっと前から、私は彦根城前にある『埋木舎(うもれぎのや)』を見てみたかった。
若かりし頃の 井伊直弼 が過ごした在所である。
彼はその実、藩主となれる可能性の低い人物だった。その彦根藩の世襲について、少々。
徳川四天王かつ筆頭譜代大名の井伊家では、原則として正室の子が跡取りとして据えられる。
井伊直弼 は、側室の子。上には兄もたくさん居り、藩主への道は遠かった。
由緒ある彦根藩主の子として生を受けつつ、部屋住みでしか生きられぬ身の上だった。
それを儚み、『埋木舎(うもれぎのや)』と名づけた風流人。
井伊直弼と父母
この井伊直弼と両親との関係は、どのようなものなのか。
母・お富の方
井伊直弼の母は『君田 富(きみた とみ)』お富の方と言う。
側室ながら『彦根御前』と敬われ、井伊直弼の父・彦根藩主の直中に深く愛されていた。
彼女には子が3人授かり、直弼の同母兄は彦根藩主の世継ぎとして据えられた。十一男・井伊直元という。ここからも、彦根御前に対する父・直中の寵愛ぶりが伺える。
しかし彼女は35歳で亡くなってしまった。
末息子の直弼はわずか5歳、母との別れは如何ばかりか。
父・直中
さて、井伊直弼の父は「井伊直中」第11代彦根藩主である。
名君と讃えられたが、彼には悔やみきれない過ちがひとつ。
天寧寺の伝説
彦根の天寧寺、これは父・直中の建立した供養の寺である。
自分の孫を身籠ったとは知らず、腰元(側室候補)『若竹(わかたけ)』を死罪とした直中。
彼女を孕ませた相手は、なんと彼の長男であった。
病弱のため14歳で廃嫡となったが、元は世継ぎの身。
21歳で儚く世を去った長男・直清の子を、自ら成敗してしまった直中。
この一件から、井伊家の腰元には並々ならぬ神経をつかったに違いない。
貧乏旅行記
今回の彦根の旅は、滞在時間3時間。
五百羅漢(ごひゃくらかん)の『天寧寺(てんねいじ)』にも訪れたかった。
しかし、私は青春18切符で10時間ほどかけて来ている。
彦根城内さえ見られなかった私は、そこまで足を伸ばすことが出来なかった。
幕末の史跡
この寺院には、父藩主・直中の腰元『若竹』(兄・直清の子を宿した女性)の菩提を弔う他、直弼の碑、村山たかの碑、長野主膳の墓がある。
私は先人彼らの歴史を書く時、可能な限り墓参りをするように決めている。
そう遠くない未来にまた訪れ、花と香を手向けたいと思う。
(直弼の墓まいりは行きました)
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