【東京都台東区】浅草を歩こう②/合羽橋、合羽橋道具街、伊予大洲藩、合羽屋喜八

旅行と歴史

わたしのこと

旅行と歴史をこよなく愛する みやび ひまり (雅 陽葵) と申します。

大好きな浅草を、再び歩いてみます。

河童の話

前回からの続き。

彦根で出逢った河童さん。

この方からの刺激を受け、私は再び河童を追ってみることにした。

河童の伝説は全国各地にある。私の暮らしている東京にも、有名な『河童の名所』があるので紹介したい。かっぱ橋である。

合羽橋の由来

漢字で書くと『合羽橋』

合羽とは、雨ガッパのこと。

名前の由来には2つの逸話があって、伊予加藤藩の合羽とも、合羽商人・喜八とも言われている。

①新谷加藤家による合羽

1つ目は、伊予の新谷加藤家の下屋敷に暮らす下級武士らが合羽の発祥というもの。

伊予の新谷藩(にいやはん)とは、大洲藩の支藩である。大洲藩は元々、藤堂高虎の所領だった。

高虎の養子が継ぎ、高虎は伊勢国津藩に転封となったが、大洲は高虎所領のままだった。

また、幕末の大洲藩は大変ユニーク。勤王の気風が強く、早々に勤王で藩論が一致していた。

あの坂本龍馬が運用したことで知られる『蒸気船いろは丸』は大洲藩の所有であり、大洲藩より海援隊に貸与していたものである。

鳥羽・伏見の戦いでも、一万石の小藩ながら参陣。廃藩置県では『大洲県』として名を残すも、統合によって愛媛県になった。

この新谷藩の下級武士らが、内職で作っていたのが『雨ガッパ』

下屋敷が置かれていたのは川の近くで、作った雨ガッパを橋にかけて乾かしていたことから『合羽橋』と呼ばれるようになったという。

②商人・喜八による合羽

2つ目は、この地で商いをしていた合羽屋喜八(かっぱやきはち)の名から付いたという説である。

雨ガッパ商人の合羽屋喜八とは、雨が降るたびに洪水が起こるこの町の水路の工事をした人物。

水路の工事は莫大な費用と労力がかかるもの。それでも喜八は諦めず私財を投げ打って着手してゆく。

それを見ていた隅田川の河童たちが、喜八の行いに心打たれて手助けするようになる。

工事は無事に成功、河童と作り上げたこの町に繁栄をもたらした、というもの。

前回、河童を関西では『川太郎』と呼んでいたと紹介した。

喜八も『合羽川太郎』の別名が通っており、もしかしたら関西から来た商人かもしれない。

合羽屋喜八の黄金碑

河童の手のミイラがあると伝わる、あの有名な『曹源寺』には、合羽屋喜八の墓もある。

通称かっぱ寺、合羽橋の商店街を歩くと通り沿いに『曹源寺』があって、まるで河童に守られているかのように墓が建てられている。

この合羽屋喜八の伝承は、合羽橋の立て札にも見られ、黄金の河童像なども誇らしい。

合羽橋の英雄・喜八。

大変長くなってしまったので、一旦〆。河童については、次回に繋げることとする。

あとがき

発信させて頂きたいと思います。

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