幕末を大きく動かした、大老・井伊直弼。
私は先週、彼を育んだ滋賀県彦根市を訪れた。
わたしのこと
井伊直弼、茶道を愛す
『一期一会』という言葉がある。
井伊直弼の広めた四字熟語で、意味は 生涯に一度限り。
彼は藩主の跡継ぎとして決まる前までの間、茶道を熱心に学んでいた。
著書『茶湯一会集』茶の湯の集大成の中で、一期一会の心構えを説いている。
青年・井伊直弼 は、世継ぎになれぬ身の上だった。
茶歌鼓(チャカポン)とあだ名され、な小馬鹿にされた感じが否めない。
(『井伊直弼公生誕200年祭実行委員会』HPより)
たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。
そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。
【一生に一度のものと心得、誠意を尽くし臨むべきとする一期一会の精神】
己と向き合う精神
私が口にする言葉にも、よく似ている。
「今は、もう今しか無いんですよ」
今は今だけ、これは井伊直弼の言葉を基にしている訳ではない。
先の見えない時代を不安に思わず、今を努めて生きていたい。
私はそう唱えることで揺れ動く己の心を戒めるのだ。
「まずは己に打ち勝つ」そう考えていた井伊直弼と、考えは同じである。
善人か、悪人か
『一期一会』の井伊直弼。
吉田松陰や橋本左内を死罪にし、一橋派を弾圧した男。
この文化人が、あの『安政の大獄』を行った人物なのか?
その前に東京・世田谷にある井伊家の菩提寺にも足を運んでみた。
井伊家の墓所はたいそう立派だった。『豪徳寺(ごうとくじ)』と言って、駅すら菩提寺の名前がついている。
![](https://mari24.jp/wp-content/uploads/2021/07/豪徳寺_210706-160x160.jpg)
井伊家は何人も功績を残しているけれど、かの有名な井伊直弼の墓は特に分かりやすい。
桜田門外の変で彼を守ろうと戦った家臣の墓もすぐ傍にあり、なんとも感慨深いものがある。
あれほどの墓を持つ井伊家だから、彦根もきっと豊かな街なのだろう。
彦根へとたどり着いた私は、豪華とはいいがたい駅と街並みに驚いた。
「街も今は、埋れ木だな」
これが正直な感想だった。
それもそのはず、彦根というのは35万石の大大名が治めた地だったのだから。
彦根城ほど近くに、井伊直弼が青年期を過ごした『埋木舎(うもれぎのや)』がある。
向かってみると駅から彦根城まで15分もかからない。
詩を詠む
『埋木舎』へ向かう通り道に、井伊直弼の歌碑を見た。
あうみの海 磯うつ浪の いく度か
御代にこころを くだきぬるかな【超訳】世のため、幾度となく心を砕いてきた。
彦根の私は幕府大老として、国政に尽くしている。
井伊直弼は、心情を吐露した歌碑を書き添え、この2ヶ月後に暗殺されている。享年46歳。
『埋木舎』で、若かりし彼はこんな和歌も残している。
世の中を よそに見つつも うもれ木の
埋もれてをらむ 心なき身は【超訳】私は世の中を変える立場にない。
けれど、なすべきことをしよう。
藩主の子
井伊直弼は、彦根藩11代藩主・井伊直中の14男として生まれ、晩年の息子として可愛がられた。
しかし母は早くに亡くなっているし、藩主の子であっても世継ぎとなる可能性は低い。
そのため、彼は他の兄弟同様、養子になることを夢見て江戸へ行く。
だが、失意のままに彦根へと帰国した。
埋木舎
そして在所を自ら『埋木舎』と名付け、身体と心を磨き続けてゆく。
未来も知らぬままに19歳から32歳までを過ごし、ようやく彦根の世継ぎとなった。
19歳の詠んだ歌、45歳の詠んだ歌。
どちらも同じ人物だが、行動と心情が一致していたのかどうかは分からない。
私は『埋木舎』を訪れて、世間の言う井伊直弼とは違う人間像を思い浮かべていた。
次「あとがき」「読者コメント」☞
コメント