わたしのこと
旅行と歴史をこよなく愛する みやび ひまり (雅 陽葵) と申します。
桜田事変の起こった日
桜田事変が起こったのは旧暦3月3日。
『上巳の節句』つまり雛祭りの出来事です。
このような催事の日には大名らが総登城し、将軍に祝辞を述べるのが慣例となっていました。
しかし、雛祭りとは現代と変わらず『女のための祭り』
さほど重きを置かず、御三家など家老を名代として登城させる場合もあったそう。
しかし女の祭りですから、大奥での賑わいは並ではありません。雛に豪華なご馳走を供え、本丸、西丸、三の丸、互いに訪問し白酒で祝いました。
川柳:雛祭り 旦那どこぞへ 行きなさい
さて、桜田事変で暗殺されてしまった井伊大老は、『将軍継嗣問題』の勝者です。
一橋の慶喜公か、紀州の慶福(家茂)公か。
御三家、親藩、外様の各大名らが難局を乗り切らんと、慶喜公の将軍就任に期待を膨らませます。
慶喜公は、御三家の水戸と皇族の高貴な血を受け、聡明で物怖じせず、人々の期待を一身に背負った人物です。
一方で、慶喜公の父・斉昭公は、烈公の諡がつくほどモーレツ。文政天保から政治に参与し、軍備を奨めて過激な進言をし、幕府から危険視されていました。
この水戸の血を引く、と言うのが厄介がられ…
強い幕府を目指した井伊大老は、強い幕府=独断専行の幕府に戻そうとしていた訳でありまして。後の開国・無勅許調印だって、幕末で無ければ朝廷にお伺いなどかけていませんからね。
それが、勤皇熱い水戸家を筆頭とした世論に負け、天皇を拝す政治に傾いている。井伊大老が、水戸を押さえつけるのは必需。
水戸を背中にしょった慶喜公を将軍に⁉︎ とんでもない!となる訳です。
この『将軍継嗣問題』ならびに『無勅許調印』は、井伊大老の凄さを見せつけられますけど。安政の大獄と戊午の密勅の対応はちょっと 笑
こちらはまた後ほど書かせていただくとしまして。
倹約嫌いな大奥も、水戸の干渉を酷く嫌い、水戸が将軍に⁈ 絶対ダメよ!と断固阻止の姿勢。
井伊大老と大奥、両者が手を組み成し遂げた『将軍継嗣問題』の決着。結果は、皆さんの知る通り。
こんな内情を知ると、井伊大老は上巳の節句も必ず登城するだろう… と想像してしまうのです。
この数日前にも、井伊大老は紀州藩の屋敷に招かれ労を労ってもらったばかり。今でいう紀尾井町、ここでも水戸の襲撃がりましたが、井伊大老は警戒しなかったんですね。
自分は死なないと思っていたのか、或いは水戸の襲撃を弾圧の口実にせんと息巻いていたのか。
川柳:今までは 井伊井伊とこそ 思いしが 首をとられて 水戸も(みっとも)ないもの
桜田事変研究会を発足した私は、井伊大老の長女・弥千代姫の雛人形を観てまいりました🎎✨
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