わたしのこと
彦根の旅行記も、20作目となりました。
わたしと埋木舎
私が彦根へ行きたい!と熱望していたのは、『埋木舎』を見たかったから。
埋木舎? うもれぎのや‥??
大名の跡継ぎは江戸で育つのが基本です。井伊直弼の出身は、彦根です。
彦根に居た直弼は、藩主になる予定のなかった人物ということ。一度は、20歳で江戸へ足を運びますが、1年ほどで帰りました。
そして、彦根で埋もれゆく人生(=部屋住み)を準えて、自分の住まいに『埋木舎』と名付けます。
皮肉を名付けてしまう、直弼のこのユーモラスさ。
井伊直弼 が好きなのか?と聞かれると、当初の私はそれほどでもなく。殺された人?くらいの認識しかありませんでした。
埋木舎とは
歴史、特に幕末史を好きな人ならほぼ知っている『埋木舎』のエピソード。
『風雲児たち』という漫画に出会い、井伊直弼を知って、『埋木舎』に興味を持ち、訪れてみたいと思うようになりました。
☝︎この漫画には、桜田門外の変から、井伊直弼の半生まで、面白く描かれています。
藩主の子として生まれながら、補欠だった人。
そんな幕末の井伊直弼から、彦根藩井伊家に視点を広げてみましょう。
井伊家の控え
イギリス王室から離脱したヘンリー王子が本を出すそうです。その名も『スペア』
ヘンリー王子は、兄・ウィリアム王子の代わり(=スペア)でしか無いと思いながら生きてきたようで…
故ダイアナ元妃も、「ウィリアムは、王室が守るわ。だからヘンリーは私が守る」と言っておられました。
うーーーん、現代でもこうなのか。江戸時代の日本だって… スペアだよなぁ。と思わずにはいられません。
井伊家は幕府からの信頼厚く、「彦根は、他家からの養子を許さず」という裁定がありました。
そのため、他家から養子を入れず、ずーっと井伊家の血を守り抜いてきたのです。
とは言え… 早死にも多い江戸時代のこと。成人までの死亡率が高い頃なのでね。
井伊家には、10人、20人の弟=スペアが居ました。
このような歴史から、井伊家の補欠は直弼だけではありません。
五代直通、六代直恒、九代直禔の時には、存続も危うくなりましたからね…
https://hikone-castle-museum.jp/history/pdf/family-line.pdf
藩主・直亮の御代は、部屋住みが直弼 1人でしたけど、井伊家は常にスペアを置いておく。そういう家なのです。
そのため、父の代の直弼の叔父たちも、城下の屋敷に控えて暮らしていました。
何も、直弼だけが埋もれたワケじゃない、ということ。
でも彼は、この場所に甘んじる人物じゃないと思っていたのでしょうね。
直弼は、父であり藩主・直中に、他の兄よりもずっとずっと可愛がられていました。
劣等感というのは「自分は人より上にいる」と思うからこそ、持つものかもしれません。
井伊直弼の人間性
藩主になれる可能性は低く、居候として人生を追えるはずだった、井伊直弼。
自分も、藩主になれるかもしれない!と、期待して敗れて、彦根に逆戻り。
そうして… 兄の腰元・村山たかに恋こがれ。
井伊家の世継ぎとして、はじめて将軍に会い、落涙する。
なんだか、人間として面白いと思ったんですよね。
埋木舎をたずねて
まぁこんな感じで、私は軽く井伊直弼のことを知っていたんです。
そんなアイツの育った場所を見ておこう、じゃあ埋木舎へ!ってことで、彦根へ行きました。
初めて訪れたのは9月でして、彦根城の堀は抹茶色に染まっていました。
埋木舎から
ぼんやりと、中に入れぬ埋木舎の前の道を歩きながら、、
井伊直弼にとっての、幸せってなんだったんだろうな~っと、想像していました。
チャカポンとは、井伊直弼のあだ名です。
熱心に学んでいた「茶道」「和歌」「鼓(能)」を指し、茶化した名前で呼ばれてたそうで。
でも、、誰が呼んでいたかって、彦根の藩士らですよねぇ?
随分と馬鹿にした感じがしますけど??
つまり、井伊直弼はスペアとして、低く見られていたってことでしょう。
それが、トントントンッと出世してしまい。世継ぎ、そして藩主になり、挙句の果てには 大老!になってしまいました。現代の総理大臣ですよ。
精神力を鍛えたって、、アータ。国学を学んだとか言ったって、実績の無い人がいきなり政治を任されて、上手にできるとは思えない。
それでも大老就任後、①将軍継嗣問題と②条約調印問題の2つを鮮やかに解決し、おおーっ!となりますが…
日本各地の藩主に睨まれ、緊張の7日間を乗り越え… さらに形勢逆転すると、敵勢力をやり過ぎなほど弾圧してしまう。
コレはね、諫言の臣を持たなかったからダメだったのだと思うのですよ。
生まれながらの貴公子・徳川慶喜は、意見できる人を登用してますから、さすがですよね。
井伊直弼の腹心といえば、長野主膳&宇津木六之烝。
彼らも、ひとつのプロジェクト(将軍継子問題)を成功させた優秀な部下です。
しかし…家臣つまり部下の長野主膳らに、実のところ判断を委ねていて、直弼自らが考えて決めたりしていないんじゃないかって思ったんです。
安政の大獄を行ったのは、とても残念なことです。
大老就任から、開国や将軍継子を直弼の独断で取り決めたにしては、鮮やか過ぎますね。そして安政の大獄も、、私怨で動いたにしては、、なんとなく違和感もあり。
直弼は、決して無能ではなかった。でも、畑違いのところから、ここまで出来るものなのかな~って、そんな気がしてならないのです。
埋木舎で人を見上げていた人間が、良い領主になったのは納得。彦根城から見下げていたら分からないことがいっぱいだったでしょう。
でも、政治については、、どうしても、偏った考えのブレインに、踊らされていたような気がしてならないのです。
私は、この弱くて脆い、人らしい人と言える 井伊直弼 を知りたいと思うようになりました。
あとがき
いよいよ、『埋木舎』を訪れた私。
あっ‥ もしかしたら!
私が思うよりもっと、井伊直弼の人間らしさは深いのかもしれない!
調べていくと、、、なるほど!
彦根の面白さにハマってしまいました。彦根には常に発見があります。こうして私は、ますます彦根に魅せられてしまいました。
井伊たび、彦根きぶん!
調べてゆきたいこと
ペリー来航から7年後、桜田門外の変が起きました。いまの総理大臣に匹敵する、大老・井伊直弼が暗殺された事件です。
元々、私にとって『桜田門外の変』は幕末の中でも特に関心のある事件だったのですが、今年の秋から『井伊直弼』に焦点を当てて読み深めてゆくと、「これって、どうなのかな~?」と思う事が多々でてきました。
まずはこれ、、
⑴ 井伊直弼は、決断力のある人物だったのか?
その、たとえば松下村塾の皆は、たくさん勉強して、日本各地から情報も集めて、海外のことも見て聞いて、、そして政治を教わり、皆でも考え抜く、といったスタイルですよね。吉田松陰の勉強量って半端ないし、佐久間象山に師事してますし。
一方、井伊直弼は文化、芸術部門で鍛錬を積んできた人なんですね。そーいう人が、国を任され、ハイ政治も任せるね!みたいな感じで、将軍継子問題&条約調印問題の2つを、ここまで上手にこなせるものかな~と。
さらに、井伊直弼はとても風流で繊細な人物なんですね。安政の大獄で、こんなにこんなに、人を死に追いやる残虐性があるとは、、私には思えなくて。
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