実はこの人物、徳川慶喜と 深~い縁があったのです ☝
巣鴨の史跡
巣鴨を歩いていたら、史跡マップを発見!
新門辰五郎の墓 だって!?
早速、行ってみましょう!
お岩通り商店会
こんな道を歩きまして
何の目印もない道を入っていきます
強いて言えば、この肉屋の手前を左に入る感じ
灯りに名称が書いてあるので分かりやすい
盛雲寺へ
新門辰五郎の眠る寺
浄土宗 「盛雲寺(せいうんじ)」
寺の境内
門をくぐると、右手に菩薩像
かいだん噺
六地蔵の後ろの階段へ、ここに怪談はない (四谷怪談は次の機会)
燈籠(とうろう) 脇の小径を下ります
新門辰五郎の墓
正面すぐ右手側に、新門辰五郎の墓 ☟
墓の特徴
ちょっと変わった墓石
隣には「 新門 なにがし」の文字が
中村屋 = 新門辰五郎・生家の名字
あとがき
新門辰五郎とは
江戸幕末に活躍した火消しの親分。1800年生まれ、徳川慶喜を守った (警護) 人物。
辰五郎は火消(今の消防士)。江戸時代には町火消制度(今の消防団)がありまして、いろは四十八組で構成されていました。辰五郎は 浅草に属するを組 の頭・町田 仁衛門に気に入られます。やがて町田の家に婿入りし、を組の後継となりました。
辰五郎は、を組 が起こした事件の責任を取って佃島(今の刑務所)へ。ここで起こった火災も見事に治めました。功績を残し、お祭りやカジノなどでの元締め・任侠(にんきょう・893とは違います)として大きな力を持つようになります。浅草に新しくできた門の番人になったことから、新門と名乗るようになりました。
徳川慶喜との関係
辰五郎の娘・芳(よし) は、徳川慶喜の妾となります。この縁から慶喜が 禁裏御守衛総督 として京都入りする際には、辰五郎も子分を率いて共に上洛し、警護を務めました。
大政奉還の後、慶喜の大坂脱出には 芳 も同行。しかし辰五郎らは残されました。そんな大坂でも活躍し、上野寛永寺・水戸でも警備と火消を務めました。慶喜の駿河入りにも付き従いました。そこであの清水次郎長と交流があったとか(長いので割愛します)。
その後は江戸に帰り、1875(明治)年に生涯を閉じます。享年75歳
火事への意識・江戸と現代
江戸は、とにかく火災の多い時代。火消の出番もかなりのものでした。街を広く焼き尽くしてしまうほどの大火もしばしば。電気の無い時代ですから、夜は行灯(あんどん)や飯炊き。冬になれば火鉢など、今よりずっと火を使っていました。
浅草十番組 を組 について ☟
武士だけでない、町人の素晴らしさ
勝海舟と交流があった、娘が慶喜の妾など、私は以前から 新門辰五郎の名は知っていました。今回、慶喜 との関係を探っていくと、あの新門辰五郎に警備をさせた慶喜ってやっぱり凄いんじゃない!?との結論に達しました。辰五郎は偉大で、喧嘩は多くても、戦はしてないんですよね。
私の中の 新門辰五郎 は、幕末が選ぶ 超・イケてる町人 の代表じゃないかと思います。イケてる町人は、いっぱい居ます。高田屋嘉兵衛とか、私の人生を変えた 大黒屋光太夫とか、紹介したい人に溢れています。
本日もお読みくださり、ありがとうございました!
オススメ書籍
消防士の漫画