昨年11月。私はようやく、、
本州最南端の鹿児島県、更に 南の知覧 を訪れた。
わたしのこと
知覧と特攻
「知覧へ行ってみたい」という気持ちは、前々から持っていた。
知覧へ行けば「特攻平和会館」と言われるほど有名な観光名所があり、特攻隊員の遺書や遺品が展示されている。
日本軍の凄絶な任務を遂行する若者達。かの有名な「特攻作戦」である。
東京で暮らす私は、靖國神社の遊就館 へ行けば見られぬことも無い。
この比類なき「悲惨さ」を垣間見ることが出来る。
それでもわざわざ知覧へ行きたいと熱望したのは、慰霊。
そして、特攻と沖縄戦という日本の最悪な歴史を、この目で見て学びたいからだった。
知覧まで
宿泊地の鹿児島中央から、バスで知覧へと向かう。
10時頃の便に乗り、到着はお昼前。往復3時間なかなか遠い。
タクシー料金だと¥10,000‐ほどの距離にある。
知覧 は南九州市の中ほどにあり、最南端だが港町ではない。
敵軍に見つかりにくい場所を選んで基地が造られたため、山々を越えてゆく。
灯篭への思い
緑豊かな山道から、一気に立ち並んだ 灯篭 が目に入ってくる。
灯篭とは道に迷わないための灯り。
亡くなった人が迷いや未練を捨て、幸せになれるよう。成仏への道標も果たす。
バス待ちの時に、山口県から来た2人の女性と知り合った。
知覧までの道中を楽しいものにしてくれた旅人のマダム達。
いよいよバスを降りる。彼女達とのおしゃべりも名残惜しい。
「私、まず特攻平和観音堂へお参りしようと思っているんです」
バス料金 ¥950‐
マダム達は、千円札の釣り50円玉をそのまま私に渡して言った。
「オバチャンら、知覧に30分しか居られないから、お願いして良い?」
3人分の賽銭、祈願ではなく供養のため。
私は真っすぐ 特攻平和観音堂 へ向かった。
特攻平和観音堂
境内は撮影禁止のため、立札の言葉をメモから書き出す。
英霊に捧げる言葉
わが國土 沖縄に進攻した敵艦船を一死をもって撃沈するため尽きぬ父母への思いを断ち、沖縄の海と陸に参加された崇高、清純な特攻隊員の英霊よ!
その偉業は、子々孫々に至るまで伝え申さん
何卒、観世音菩薩の御許に
安らかに眠り賜らんことを慈に謹みて仏像を彫刻し、奉納し奉る
お堂の中に居る大きな「平和観音菩薩」の像は、薄目を開けて左手でグワシッをしている。
そもそも「観音」とは。音を観じると書く。人の声を聴き姿を正しく見る。
「苦悩から人を救う」ご利益がある、女体像である。
観音菩薩は、宗派の枠をこえて広く信仰されている。
特攻隊員への供養
観音像の美しさを見ながら、私は思う。
立札に書かれた「偉業」という言葉は、違う。
母上様! お母さん!
そう叫んで亡くなった、若き隊員たち。
隊員を賛美することで、戦争を正当化しているよう。
歴史を知るのに大切なのは、人に寄り添うこと。
それから始めるべきだと、私は信じている。
次「あとがき」「読者コメント」☞
あとがき
知覧、特攻平和会館へ行くならば、まず 観音堂 へお参りして欲しい。
夢ちがい観音像
この観音像の名前は『夢ちがい観音像』と言います。
特攻隊員の芳名を記した奉書が納められています。
観音様の中を胎内に見立て、また生まれ出づる。
亡くなった特攻隊員が、遺族の元に生まれ変わっていますように。
海外の誤解
語学学校の学生だった頃、辞書で「Kamimaze」の意味を見ました。
「Kamimaze」向こう見ずな、自殺的な、無謀な
それが 神風「Kamimaze」と呼び方が変わり、言葉が定着しました。
蒙古襲来
時は、鎌倉時代。
中国「元」のフビライ軍が日本を進攻しようとした時、神風 (暴風雨) が吹き荒れ、敵を撃退した。
神風特別攻撃隊 (しんぷうとくべつこうげきたい)とは
その歴史から「強い敵が向かっても日本は神の国。神風が吹く!だから負けない!」
「伝承」が独り歩きし、多くの命が失われました。
特攻のこと
「特攻隊」これは、軍が決めたものです。
「志願」とも言われていますが、上部の指示なしに 兵隊が志願する なんてあり得ません。
戦中には、「私達のために命を捧げた軍神」として扱われました。
そして戦後まもなく、「軍国主義者」「志願兵」と非難されます。
現在ではまた「英雄」のように取り上げられる。
私は、可哀想とか、国を救ったとか、そういうことではなく。
「怖い命令が日本にあった」と、恐怖するものだと思うんですね。
戦争は悲惨なもの。そして「人を、人で無くするもの」です。
そもそも、私は「特攻ドラマ」より「特攻命令」「軍の行い」を追っています。
戦争は絶対「悪い」
そんなことは分かり切ってても、どう「悪い」のか説明できない。
「可哀想」で終わりにしてしまったら、負の歴史と流れを変えられるはずがない。
戦争を仕掛ける人と、戦争へ行く人。その仕組みを理解し、変えていきたい。
私の生きている間に、成せたら‥
為せば成る為さねば成らぬ何事も
成さぬは人の為さぬなりけり
武田鷹山
【超訳】やればできる!やらねばできぬ!何事も。待っていちゃダメ!
みやび拝
読者からの情報
山口県の記憶
山口のおばちゃん達粋な事されましたね。多分彼女たちの頭の中には、人間魚雷:回天の事があったのではと想像します。知覧は飛行機による特攻ですが、回天は魚雷です。場所は大津島で山口県周南駅から船がでております。ここも涙無くして語れる場所ではありません。
特攻隊員、異質な手紙
昔。知覧の特攻平和会館に行ったことがあります。訪問者も少なく、じっくりと手紙を読みました。一人だけ異質の文章を覚えています。彼は、国家の一員としての死ではなく、自らの個人の死を見つめていました。まるで、戦争から逃げているような。ギリギリで検閲を通ったのか。今でも、その思いは、知覧の想い出と共にあります。
戦争を忘れない
皆様、第二次世界大戦をご存じですか?私は小学生でしたが、開戦の日も終戦の日の事も鮮明に覚えております。山本五十六氏が猛烈に反対した戦争、日本は大切な優秀な若者を失いました。戦争がなかったら今の日本はどのような国になっていたかと、思う時があります。傲慢な国のままだったか?むしろ戦争をして負けて良かったのかもしれません。日本の関東軍のおこなつた事は、日本人として許す事はできません。昭和一桁生まれ、未だ生きている私の感想です。日本は戦争に負けて本当に良かったと思います。万が一勝っていたら、いや、そんな事は億にに一も無かったと思いますが、日本の軍隊は本当に異常でしたよ!小学生の私が感じた程ですから、鹿屋にも知覧にも、勿論行きましたが、望むと望まざるに関わらず戦争に駆り出された若き彼等の胸の内、さらには、そのご家族の事を思うと涙が止まりませんでした。日本は多くの素晴らしい遺伝子を失ったのですから。
中国人の言葉
歴史の出来事から何を学んだでしょうか?歴史の出来事が何を語っていますか。人間が歴史の出来事を鏡として同じ悲惨な出来事が再び起こらないように努力するようにすればこそ歴史との出来事の価値でしょう
励ましの言葉
貴女は投稿する事で活かして居ますよ。それぞれに考え学び出掛け此の眼で観る!素晴らしい事では?これからも御自身の行動に自信と誇りを持って進んで下さい。応援しています、ガンバ!!
日本人と特攻
日本人なら、一度は知覧か鹿屋へ行って、特攻隊員の遺書を読むべきだと思います。どういう思いで旅立って行ったのかを知れば考え方が変わると思います。母や妹達が一分でも一秒でも長く生きられる為なら、自分が特攻する意義があると言う彼らの遺書から沢山のことを学べると思うんですよね。
知覧を訪れて
おっしゃる通り。日本人なら行って見たほうがよいかもですね。 私も昔行きましたが もう 心が引き裂かれるような 悲しみを覚え 涙がとまりませんでした。
長野から知覧へ
63歳てやっと知覧へ行く事ができましたが、時間が無くて残念でした。長野県出身者が35人いた事を知り、ビックリしました!人を殺す戦争は、無意味なことだ。
父の思い出
一度は行きたいところです。父が、予科練隊でした。私達が小さい時、働き過ぎて体をこわしてしまいました。父が60代の時、車椅子に乗り、窓から西の空をずっと見ていた姿が忘れられません。
特攻隊員の思い
数年前に九州旅行の目的の一つ、知覧に行きました。特攻で散って行った多くの若者達の想いを今の日本人は忘れず知って欲しい。日本を守る為、残された家族の為。でも辛く無い訳がないです。
未来から、今を振り返る
みやび様は今回難しいテーマを出されておられます。特攻隊、戦艦大和の出撃、いずれも片道切符。もう軍隊という組織が機能していない。機能してないからこそ、行って死んでこいと。こんな事しても勝てないと分かっていてもやらねばならないと–大本営も承知で命令を出している。鬼畜米英、一億玉砕が、一夜明ければ、解放軍、平和、自由、豊かで常に『今』しかない日本の誕生。歴史的『あの時=時間』を評価するのは難しいのだ。
特攻隊員の父
みやびさんこんばんは。知覧は亡き父親が終戦まで居たところです。あと数ヶ月戦争が長引いていたら僕はこの世に居なかったと思います。
知覧の名所
私は知覧まで行ったことはないが、鹿児島中央駅からのる指宿枕崎線で、知覧の手前の指宿まで行って、毎年元旦明けの最初の日曜日開催される、指宿菜の花マラソンに3回出かけました。大ウナギがいるという池田湖、薩摩富士の開聞岳、指宿名物の砂蒸し風呂等、見どころ一杯です。さつま揚げや焼酎も旨い。
御礼の言葉
あなたの紀行を読んで、涙が流れました。ありがとう。
太刀洗陸軍と桜花
知覧に行きたいという思いはありますが、まだ行った事はありません。福岡県の筑前町立大刀洗平和記念館に行き特攻された方々の遺書を読み、また大分県の宇佐市平和資料館に行って「桜花」という特攻専用機を見ました。とてもつらい気持ちですが、現実を直視しようと涙を堪えました。近々知覧と沖縄に行って戦争史跡を見たいと思っています。
知覧の感想
行った。見た。泣いた。
堺の娘
国の為 散りにし誠 知る人ぞ 万古につたう 心清らに 南行
知覧の旅
私も知覧に行きました、感動しました。
知覧と特攻
自分の以前鹿児島に1人旅行った時知覧の特攻会館訪れて1人涙が止まらず見学した事を思い出しました!当時の特攻隊の儚くも散っていった事に胸を討たれます。
戦争と平和
「平和を求めるなら、戦争を学べ」と教わりました。「平和のための軍事研究」は大切ですね。
英霊への違和感
私もここに行ったことありますが、戦死者を「英霊」視する展示には違和感ありました。
知覧と鹿屋
次回の鹿児島旅行は鹿屋市へ。知覧は陸軍で鹿屋は海軍の特攻隊出撃地でした(俳優の西村晃さん、茶道裏千家の千玄室さんも所属していました)
思いを受け留めて
毎年、鹿屋と知覧へはいくのですがむねのうちが熱くなり込み上げてくるものがあります。日本の為に家族の為に愛している人のために。
鹿屋もぜひ!
鹿屋航空隊の方も良かったのに、残念!!
好きな時代
私も、歴史好きです。幕末や戦国とか
戦の歴史
同じ歴史でも私は古代ですが、「戦」には注目しています。かつて、弥生人は人を殺す武器を持たない縄文人たちを侵略し、稲作は身分の上下を作り、激しい戦闘を生んだ……と、信じられていました。でも、発掘調査が進むと、弥生人が縄文人を侵略した跡は見つからず、むしろ友好的に迎え入れられた渡来人と縄文人が混血し、稲作を覚えて弥生人に変わっていったと考える方が自然だとわかってきたそうです。大阪に日本で唯一弥生時代をテーマにした「弥生文化博物館」があり、学芸員だった友人(今は文化庁にいるだけで弥生研究から離れたわけじゃないです)は、「どう考えても戦は効率が悪い。水の配分に関わるいさかいなども、ほとんどは話し合いで済ませたと考える方が自然」と言っていました。最近の研究では、戦国時代の戦も、むやみやたらと人を殺すのではなく、相手の戦意を喪失させる戦法をとることが多かったという考え方が多数派だと聞きました。そう考えると、幕末から昭和にかけての、相手を叩きのめすまで、自らが壊滅するまでやめない戦いは、カール・マルクスの唯物史観など、その時代特有のイデオロギーが反映しているのではないかと思えます。みやびさんの旅、興味深いです。
靖國神社と英霊
私も歴史大好き女子(おばさん)です。幕末大好き。ところで、薩摩には行ったことがありませんが、大叔父が特攻で亡くなっています。父も詳しいことは知らず(たぶん忘れてしまい)、詳しく知っている親戚ももう亡くなっています。靖国神社で調べてもらおうと思いつつ、日々流れていってましたが、こちらの投稿を読み、私も知覧に行きたいと思いました。シェアいただきありがとうございました。
知覧と鹿屋
日本人として きちんと知るべきことですね!私も 知覧と鹿屋には 必ず行きたいと思ってます。
合掌
英霊の方々のご冥福をお祈り申し上げます!!
亡き息子と花嫁人形
私も遊就館で特攻隊の方々の遺書を見て涙を流し、花嫁人形に託された御両親のお気持ちに涙を流しました。知覧には今年は行けないですが、是非行きたいとみやびさんのポストを見て強く思いました。その時は観音堂から参ります。
嬉しい言葉
素晴らしい文章です
戦争を考える
太平洋戦争がなぜ起こったのか?そこから考える必要がありますね。日本が何か努力をすれば防げたのか?答えは否です。当時の世界は帝国主義真っ只中。アジアの独立国家は実質的に日本しか無い時代です。他は列強の植民地か、列強の意思で動かせる国しかなかった。日本は列強からみたら黄色い猿でしかなかった。オーストラリアでアボリジニを人間狩りしていた時代から僅か30数年しか経っていない時代です。そういう時代に日本は世界平和、民族独立を志向し国際連盟に訴えて門前払いにされました。これが事実。日本の言う民族独立、それは列強にとって目障りでしか無かった訳です。思い上がりだと。ドイツに攻められる西欧は、アメリカの参戦を心待ちにしていましたが、当時の米ルーズベルト政権は、不戦を掲げて成立した政権。参戦には国民を納得させる「大義名分」が必要でした。だからどうしても日本から手を出させる必要がありました。その為に米英蘭は、経済的にギチギチに日本を締め上げた上で、中国の権益も捨てろと強要した。また『義勇兵』と言う名目で、米国正規軍からなる航空戦闘部隊を大量に中国に派遣して日本軍を攻撃していました。経済的に立ち行かなくなった日本は開戦せざるを得ないだろうと。天皇陛下の開戦の詔には経済的に追い込まれた苦しさがハッキリと表現されています。日米英が開戦すれば、米国は日本の同盟国であるドイツと開戦する大義名分が出来ます。その証拠に英国首相チャーチルは著書でパールハーバーの開戦の報告を受けて『やった』と小躍りしたと書いています。米国の対ドイツ参戦前です。これで米国が参戦出来て英国が助かる事が決まったと。事前に米英の密約があった証拠です。日本の参戦は英国をドイツから救う為の当て馬でしか無いと考えられていました。日本の権益を無くして一石二鳥だと。日本なんて直ぐに捻り潰して植民地にすれば良いと。メインはドイツと。太平洋戦争は、米英で仕組まれた開戦。そこまでは予定通りでした。しかし、一つ違ったのは日本が非常に強かった事です。それが双方を不幸にしました。日本が戦争を始めた事が悪だと言われていますが、決してそうではない。経済的に締め上げる事自体が戦争行為で、そうされた国には自衛戦争を開戦する権利が認められています。それが国際法。マッカーサー自身が戦後『日本の開戦は自衛戦争だった』と認めています。それが事実。そういう背景を新聞とテレビしか見ない日本の老人達は知らない。唯々日本が悪いと言う。それは間違えている。本当の歴史を知らないと、対策が取れず、また同じ事になってしまう。それを防ごうとしたのが安倍さんの世界を俯瞰する外交。インド太平洋の連携。QUADです。また、特攻が効果もない無駄死にだったという人が居るが、全く違う。特攻で、凄まじい被害を出した米軍は、半狂乱になる兵士が激増し、日本本土上陸を諦めました。米国が本土に上陸していれば、悲惨な事態は避けられない。特攻して散っていった英霊達が、そういう事態から日米双方を救ってくれたのです。まず、そういう背景を学ぶべきです。そういう背景と、兵士一人一人の幸不幸は冷静に分けて考える必要があります。そうしないと真実が見えてこないから。
知覧の武家屋敷
彦根に続き、こちらも以前行きましたよ〜。特攻隊員の家族宛のハガキを読むと、涙が止まりませんでした。あと武家屋敷が綺麗でした。
観音堂
一昨日、昨日と四国の観音寺市からお客様がお見えになっていました。みやび様の文章を読んでおけばと思いました。
知覧、平和観音堂
平和観音堂は知りませんでした。
或るタクシードライバーの旅行記
特攻隊の手紙を読むと涙が止まらなくなります。現在65才、結婚歴ありの独身男性です。現在、神奈川県厚木市在住在勤でタクシー運転士を20年以上やっています。4年前の4月3日から4月10日まで 厚木市内の大手レンタカー会社でエコカー(トヨタアクア)をレンタルして四国と九州へ車の運転をしながら往復してきました。
4月3日 車両レンタル、22時頃に厚木市内自宅出発
4月4日 中央自動車道~名神高速道路~北陸自動車道~舞鶴若狭自動車道~京都縦貫自動車道~名神高速道路~新名神高速道路~神戸淡路鳴門自動車道~徳島自動車道~高知自動車道~高松自動車道~松山自動車道~松山市
4月5日 松山市~松山自動車道~今治小松自動車道~国道~瀬戸内しまなみ海道~松永・尾道バイパス~山陽自動車道~広島岩国道路~山陽自動車道~中国自動車道~関門自動車道~九州自動車道~長崎自動車道~ながさき出島道路~長崎市
4月6日 長崎市~ながさき出島道路~長崎自動車道~長崎空港~長崎自動車道~九州自動車道~鹿児島空港~九州自動車道~鹿児島中央駅前
4月7日 鹿児島中央駅前~国道~知覧特攻平和祈念館~国道~指宿スカイライン~九州自動車道~八幡~北九州高速道路~小倉駅前
4月8日 小倉駅前~北九州高速道路~九州自動車道~関門自動車道~中国自動車道~山陽自動車道~広島岩国道路~山陽自動車道~松永・尾道バイパス~瀬戸内しまなみ海道~国道~今治小松自動車道~松山自動車道~高松自動車道~瀬戸中央自動車道~鷲羽山レストハウス~瀬戸中央自動車道~国道~岡山駅前
4月9日 岡山駅前~国道~山陽自動車道~中国自動車道~舞鶴若狭自動車道~道の駅舞鶴港とれとれセンター~国道~舞鶴市内(墓参)~国道~舞鶴若狭自動車道~北陸自動車道~上信越自動車道~
4月10日 上信越自動車道~長野自動車道~中央自動車道~国道20号線~国道412号線~厚木市内自宅
と言うルートで約4000kmを走行しました。前から行きたかった 知覧特攻平和祈念館と走りたかった瀬戸内しまなみ海道も通過しました。四国では丁度、桜が満開でした。過去には4年位前に神戸淡路鳴門自動車道と瀬戸中央自動車道も走っており その時は、初日は、広島市内で宿泊しました。翌日は、本州最西端の地山口県下関市にある壇之浦PAにて休憩をしましたが ここまで1000km以上無事故で走ってこれた自分を褒めたい!と思いました。4年前の知覧特攻平和祈念館を訪問した時の事、「こう言った方々がいたからこそ 現在の平和な日本があるのね」と旅行で年配のご夫婦の奥方が申された この一言が強く印象に残っています。
(Facebook・Twitterにて、受付中!)
お願い
いつも「旅行と歴史」をお読みいただき、ありがとうございます。
救援のお願い
恐れながら、皆様からのご支援・ご協力を賜りたく存じます。
PayPay ご寄付
お送りいただいた PayPayマネー は、「旅行と歴史」の執筆に充てさせていただきます。
この情報配信に対し、皆さまに楽しんでいただけるよう更なる努力をしてゆく所存です。
今後とも、どうぞ よろしくお願い致します。