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【鹿児島県鹿児島市】薩摩を歩く③ 鹿児島の言葉、鹿児島弁、薩摩弁、U-511、暗号解読、野村直邦、深海の使者

自分への誕生日プレゼントとして、11月半ばの週末に鹿児島へ行った。

わたしのこと

みやび ひまり (雅 陽葵) と申します。

幕末の歴史 & 戦争史跡を巡っています。

よかニセどん』に出会えるかっ? ٩( ”ω” )

バラ湯と温泉

普段の私は、「安宿」に泊まる。

この日くらいは奮発しようと、女性向けのビジネスホテルを選んでみた。

絹肌の湯」「11月の週末、バラ湯

良いじゃないか!! こうみえて、私は花が大好きなのである。

今夜の宿泊地は シルクイン鹿児島 という。

呑みより楽しい歴史

鹿児島中央駅 に到着し、ほとんど迷わずホテルに到着。

甲南通りという道沿い、バス停から徒歩3分もかからない場所にあった。

荷物を置き、フロントで『お勧めごはん』を訪ねる。

天文館(てんもんかん)に行けば、色々ありますよ」

ここから15分くらいです、と観光案内の地図をもらう。

どうやら鹿児島中央にある繁華街の名前らしい。

しかし、私は呑む楽しみを知らない。そのような場所にまるで興味はない。

「それなら、、」

鹿児島弁への憧れ

強い鹿児島弁で話す店主の居る店 とか知りませんか?聞き取れないほどの」

私は、幕末と戦争史跡を訪ね歩いている。

そのため『鹿児島弁の使い手』を尊敬し、解読不能の鹿児島弁に憧れているのだ!

暗号、解読不能!

それは、太平洋戦争下のエピソードにある。

ナチスドイツ海軍から日本海軍へ贈られた『潜水艦U-511』を知っているだろうか。

ドイツから日本へこの潜水艦を運ぶ『重要任務』

ドイツの要人と共に、ベルリン駐在の野村直邦中将が乗り合わせることとなった。

彼は、後にわずか2日で退任した 海軍大臣 である。

日本軍の機密を守れ!

潜水艦U-511』の出発を日本へ伝えたい。

撃沈されてしまうかもしれないし、米軍の情報機関に解読される恐れもある。

何とか知らせる方法はないだろうか?

そこで登場するのが『鹿児島弁』である。

野村中将も鹿児島の男。大変ユニークな発想を用いたものだ。

コッソリではなく、電話でやり取りすることに。

鹿児島出身の外交官・曾木隆輝牧秀司が、鹿児島弁で連絡を取り合う。

カジキサー カジキサー ヨシトッシノオヤジャ ハヨ タタセニャイカンガナー モタッタケナー

【翻訳】加治木さん(曾木の出身地)、野村中将(野村・牧の出身地)は早く発たせなくてはなりません。もうお発ちになりましたか?

この『任務』を遂行するのに、久々に話す鹿児島弁を理解できるのか?外交官には不安もあった。

しかし見事、作戦は成功!

無事、野村中将を乗せた潜水艦は、日本に着艦する。

【参考】吉村昭『深海の使者』

暗号、使用不能

そんな人、奄美大島にでも行かないと聞けませんよ!」と笑う、フロントマン。

着いて早速、鹿児島への夢 やぶれる。

ホテルに掲げられた『オサイジャシタ』の文字に、虚しさを感じてしまった。

バラ湯はいづこ?

さて、ごはんを済ませて戻って来た。

楽しみにしていた入浴タイム!

コロナ感染症対策で、入場制限してます

明日は 知覧 へ行く、朝早い出発なので眠らなければならない。

入浴を諦め、独り寂しく床に就く。

翌朝、1番乗りを目指して大浴場へ!

バラ湯、コロナなのでありません

えっ?? コロナ関係ある!?鹿児島の訛 も聴けぬ、天然温泉 も楽しめぬ。

ごはん‥はまた、次の旅行記にて。

次「あとがき」「読者コメント」☞

あとがき

鹿児島の郷

さて、太平洋戦争時。

日本軍が通信手段として使った『鹿児島弁の暗号

ドイツ日本大使館 ⇔ 日本外務省 の間でのやり取りを傍受されても解読されないよう、鹿児島弁を暗号としてつかったのが、この作戦です。

鹿児島出身の男たち

カジキさん、ヨシトシさん、ヨシトシの親父の3人について、補足します。

ドイツ日本大使館に駐在していた 曾木隆輝 は、加治木町の出身。日本外務省に居た 牧秀司 は、吉利村の出身。野村中将も、この牧と同郷です。

そのため、「カジキさん」「ヨシトシさん」と伝え合っています。

アメリカ軍情報部。

はじめのうちこそ鹿児島弁は理解不能でしたが、2ヶ月で解読可能になります。

なぜなら、伊丹明 という鹿児島出身の人物が居たためです。

彼の両親は、曾木と同じく 加治木町の出身。

伊丹明の父は薩摩隼人、郷土を愛する気持ちは人一倍強い。

息子にも日本人としての誇りを持たせたい!と、鹿児島へ留学(?)させました。

鹿児島の教育

そして、鹿児島には 郷中教育 というのがありまして。

歳の近い先輩方が、後輩に指導するのが慣わしです。

この歴史はとても古く、400年前の島津義弘(関ヶ原ごろの人物)の祖父・忠良の教えとして伝わっています。(日新公いろは歌)

15歳までを 稚児(ちご)、24歳までを 二才(にせ)、それ以上を長老(おせ)という独特な呼び方も面白いですよね。

この教育は、薩摩藩ではなく、郷ごと独自に行われます。

あの西郷隆盛と大久保利通は『同郷』で『郷中教育』を学んできた仲です。

この教育で育まれる仲は、とても深いのです。

西南戦争で、友である西郷を撃て!という指令を出した大久保。

薩摩隼人にとっては他の土地よりももっと、、、

深く悲しい思いがあったのではないかと思います。

悲しい、人間ドラマ

伊丹明は、曾木隆輝の後輩でした。

伊丹は、曾木から学び、曾木に相談し、お世話になった尊敬する人物。

日系二世というのは、太平洋戦争時のアメリカにおいて、立場の弱い存在でした。

暗号解読に協力したものの、伊丹は苦しみ、39歳で拳銃自殺を遂げてしまいます。

ちなみに私、このフロントマンに『郷中教育』についても質問しています。

「あー、確かに先輩後輩の付き合いはあるかな~」みたいな返事をされていました。

みやび拝

読者からの情報

大隅半島の魅力もお忘れなく!

鹿児島市出身です。知覧は有名ですが、鹿屋の海上自衛隊基地内にある資料館はお薦めです。知覧の遺品といった資料展示室+現在の自衛隊の装備品などもあってボリューム満点です。きっと子供まで楽しめます。日本海軍の歴史についても学べます。呉のヤマトミュージアム前はここが一番充実してたんじゃないでしょうか??太平洋戦争についての遺構(地下通信基地や弾薬庫など)も大隅半島の方が薩摩半島より数多く点在してると思います。残念なことに、大隅半島は知覧方面にあるような武家屋敷や指宿温泉などこれといった観光地がないため本当に好きな人しか訪れないでしょう(😣)しかし、最近道路網も整備されずっと近くなりましたので是非、いかれて下さい!加治屋町は母校もあり、あの辺りの道は冬の体育授業・持久走のコースのためキツい思い出しかありません( ̄▽ ̄;)地元民て結構そんなもんです(笑)ちなみに焼酎霧島は都城市で宮崎県です(笑)

薩摩の男女

私は鹿児島市の出身で今は 福岡に住んでいますが、私の父(昭和2年生まれ)が生前話してくれましたが 父が子供のころは洗濯用の物干しが 男用と女用で別々に使っていたようですし、男用の物干しの方を上の方に上げていたようです。現在ではもちろんそのようなことはないですけど、私も来年の春には鹿児島へ移り住む予定ですので 毎日桜島を見てすごす毎日を楽しみにしています。

鹿児島弁のイントネーション

鹿児島市内はイントネーションが違う位でほぼわかりますよね。でも地方に行くと今でも結構きついです。自分は蒲生に行くバスの中でお婆さんと運転手の会話が一言もわからなかったことがあります。

米軍の力

吉村昭の深海の使者は高校の時読みました。ジェット戦闘機やロケット戦闘機の設計図も持ち帰ったそうです。コンバットという戦争ドラマで米軍がアメリカの先住民(いわゆるインディアン)の言葉で無線通信してたのと似てますね。「チェックメイトキングツー、こちらホワイトヘッド!」なんて会話です。(コンバットなんていうと歳がわかるな。笑)

チェスト関ヶ原

◉薩摩の幕末気風――「郷中教育」の話は織豊期の新納 忠元(ニイロタダモト)公の時代まで遡ることになりますね。実際は江戸時代につくられたものの、その原型は新納忠元公時代には既にあったという「二才咄格式」。
◉Webに現代語訳が記事になっていました。

・武道が第一である。
・武士道の本義を油断なく実践せよ
・用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな
・何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である
・仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ
・グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである
・嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし
・忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である
・山坂を歩いて体を鍛えよ
・髪型や、外見に凝ったりすることが二才(薩摩の若者)なのではない。

万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。この事は部外者には判らぬものである。これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才と呼ぶ資格はなく、軍神にかけ、武運尽き果てることは疑いがない。

◉文禄慶長の頃、壮年が外征したため、忠元公が二才衆(ニセシュウ=青年)をして「咄」(ハナシ)という組をこしらえたそうです。はじめは「咄」の青年だけ。「咄」が江戸時代中期頃から「郷中」となって稚児衆(チゴシュウ=少年)もその中に入ることになった・・・薩摩出身の歴史小説大家 海音寺潮五郎が著書で語っておられます。

(Facebook・Twitterにて、受付中!)

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