前回から引き続き、また『村山たか』を追ってみよう。
わたしのこと
不倫の恋
『村山たか』はなぜ、井伊直弼と深い関係にありながら「側室」になれなかったのか。
彼女は「井伊直亮の腰元」つまり、兄の妻(側室)だった。
「14代直亮の側室を、15代藩主の元に置くことはできない」のは当然のこと。
他の大名家でなら許された例もあるかもしれない。
だが、彼の父・直中の胸中を知ると、井伊直弼が彼女との関係を明かせるはずなどなかろう。
井伊直弼、自分より6歳年上の麗人『村山たか』
幼くして母を亡くした彼にとって、年上女性はどんなに恋しく映ったことか。
その上、彼女は美貌と教養で名高く、茶道・和歌・雅楽の鍛錬に励んだ井伊直弼の同志ともいえる人物である。
愛読書『歴史と旅』歴史家の辻ミチ子氏の記述を抜粋する。
直弼は(長野)主馬を呼び寄せ、可寿江(たか)について愚痴りはじめた。
「かの女は、予から離れないと強く言い張るので、非常に困っている。
まるで蜘蛛のように、心の糸を出して予を縛る感じがする。
それが猛虎を絞め殺す大蛇の威力を秘めているように思われる。
何とかならないものか」
この通り、『村山たか』は井伊直弼の厄介者として書かれているが、私にはどうも腑に落ちない。
井伊直弼とは、安政の大獄であれだけの決断を下した男。ましてや藩主の身分で切れぬ腰元(侍女)など居るものか。
人柄を表すエピソードをひとつ。井伊直弼の正室は「松平昌子」といい、丹波亀山藩主の娘である。
徳川将軍・家慶の養女との縁談も持ち込まれていたが、兄はこれを快く思わず、20歳も年の離れた昌子との結婚を強引に進めてしまった。
井伊直弼は当時はまだ世子、藩主の兄に逆えるはずもなく。
それから6年の歳月を経て、兄が亡くなり、藩主となり、ようやく婚礼が執り行われた。
その後も井伊直弼、側室との間には子が何人も授かっていたが、若い昌子との間に子は無い。
井伊直弼の人柄を思うと、兄の決めた縁談を許せなかったのだろう。
切ると決めたら、容赦なく切る!そんな井伊直弼が切れなかった『村山たか』との縁。私は彼女を、そのようにみている。
井伊直弼と『村山たか』の不倫の逢瀬。年表で見てみよう。
1835年、井伊直亮、大老に就任。
1841年、大老を辞職。(徳川将軍・家斉死去の年)1842年、直弼、『村山たか』に宛てた恋文を贈る
内容「たか、君に会えなくて寂しい」
兄藩主・直亮のお国御前(国元の側室)であった『村山たか』
主人・井伊直亮は、大名の江戸参勤中。大老職在務で6年ほど帰ってこない。
井伊直弼 は茶歌鼓(チャカポン)と呼ばれるほど芸事に打ち込んだし、彼女も和歌の名手として知られている。
共通の趣味を持つ、藩主になりたかった男と、芸事を極めたかった女。
兄の側室であり、母を幼くして亡くした井伊直弼の燃え上がる恋。
煩悩に打ち勝つ
私は、『埋木舎』を訪れた。
そしてこの『埋木舎(うもれぎのや)』の中には『澍露軒(じゅろけん)』という茶室がある。
1842年、茶道に打ち込む 井伊直弼 28歳。
兄・直亮の大老辞職から1年後。それは『村山たか』と会えなくなった年である。
法華経の「甘露の法雨を澍て(そそぎて)、煩悩の焔を滅除す」
そこから名づけられた『澍露軒(じゅろけん)』
彼は『村山たか』への煩悩を打ち消さねばならぬ!
必死で己の心と向き合い、茶道や武術に打ち込み続けたのだろう。
井伊直弼とは、なんと愛すべき男なのだろう。
幕末の赤鬼は、泣いた赤鬼だった。
次「あとがき」「読者コメント」☞
あとがき
みやび拝
読者からの情報
冬の彦根
彦根は雪国です 大阪いって 草津までは雪は1センチもないのに 彦根は50センチぐらい積もっていました また雪の季節に訪問なさってください
眼力?
う〜む!こんな目でお城をみたら、その目ん玉には何が見えたんだろ?
城ファン
私は彦根というとどうしてもこの彦根城、そして滅亡した石田三成の佐和山城興味あります。
戦国ファン
彦根城の造り、敵が攻めてきた時の防御、そして彦根藩藩祖の井伊直政。家康の側近中の側近、女城主直虎でも描かれた直政、井伊の赤備えと言われた鎧兜など戦国フアンといては興味がつきません
村山たか、その後
村山たか、安政の大獄の際は、井伊直弼側で尊攘派を捕まえる手伝いをし、桜田門外ノ変の後は、尊攘派に捕まり、三日三晩、鴨川の河原に晒されましたね。
嬉しいお言葉①
美脚女子のお話教えて頂きありがとうございます!一人旅、してみたいけど中々実践できず、憧れてます!
嬉しいお言葉②
楽しく読ませて頂きました!村山たかさんの事は知りませんでした。いい勉強に成りました
村山たかの小説
丁度、諸田玲子さんの「奸婦にあらず」を読み終わったタイミングでこの投稿を見ました。埋木舎が現存しているのにもおどろきました
彦根のすごい人の目に留まる
彦根藩井伊家について、こんなに詳しく投稿していただいた事は、滋賀県民としてとても嬉しいです。井伊家の子孫は市長になられた井伊直愛さんとか、現在彦根市文化財課の井伊岳夫さんなど彦根市と深く関わりを持っています。私も市長だった井伊直愛さんとは親しくしていただき、当時住まれていた浜御殿にもお邪魔させていただきました。一番の思い出は井伊直愛さんが井伊直弼役で出演されたミニドラマの監督をした事です。30年ぐらい前の話ですが。ドラマでは桜田門外ノ変の前日にタイムスリップしたバラエティーのMCが井伊直弼と知り合い、宴会の席で明日は大変な事になるので外に出ないでくださいと言うのですが、井伊直弼の決めセリフ「覚悟の登城だ!」がうまく言えず、私はテイク20でOKを出しました。井伊直愛さんは回りの出演者やスタッフみんなに謝りながらすごく落ち込んでいました。その様子は今でも鮮明に覚えています。そのドラマ出演から1年後に井伊直愛さんは天国へと旅立ちました。
彦根へGO!
ありがとうございます。興味深く拝見させて頂きました。彦根城へは是非行ってみたいと思います。
彦根と美しい名所
井伊家の事すごく勉強されてますね。地元に居ながらあなたには脱帽です ありがとうさん。ちなみに私は石田三成の佐和山城跡の麓に住んでいます。近くには井伊家の菩提寺 清涼寺や龍潭寺、大洞弁天さんがあり、大洞から見る彦根城も綺麗ですよ。
嬉しいお言葉③
終わっちゃうんですか 残念 何日間か楽しませて頂き有難う どんな次回作が出るのか楽しみにしています
(Facebook・Twitterにて、受付中!)
お願い
いつも「旅行と歴史」をお読みいただき、ありがとうございます。
救援のお願い
恐れながら、皆様からのご支援・ご協力を賜りたく存じます。
Amazon ほしいものリスト
Amazonほしい物リストを一緒に編集しましょうURL掲載の物資をお贈りいただきましたら、有効に活用させていただきます。
「旅行と歴史」では、ブログ運営・面白さ追求・記事の充実を図るため、皆さまからのご支援 (主に書籍) をお願いしたく存じます。
この情報配信に対し、皆さまに楽しんでいただけるよう更なる努力をしてゆく所存です。
今後とも、どうぞ よろしくお願い致します。