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【沖縄県糸満市】摩文仁の丘 / 沖縄心霊体験、ガマ、黎明の塔、平和祈念公園

今回のテーマ「摩文仁の丘

皆さんの 読みたい! を、沖縄 と結びたい。

(´ω`*)ニコッ

わたしのこと

みやび ひまり (雅 陽葵) と申します。

実は、心霊体験の多いブロガー ٩( ”ω” )و

怪談から、沖縄の魅力を伝えたい!

摩文仁の丘

2021年9月、ワクチン接種3日後・・

「摩文仁の丘」へやってきました。

平和祈念公園 ☝ ここに まぶに の おか

もしかしたら「摩文仁丘」かも?(汗)。

沖縄本島の最南端、糸満市にあります。

心霊体験

沖縄の、ガマ。

ガマは、沖縄の洞窟です。

太平洋戦争 末期、沖縄戦が激化。

民間人らが逃げ込み、軍隊は火炎放射器や手榴弾を浴びせ、無残な結果に。

わたくし。ガマの辺りに足を踏み入れましたらね・・

急に、震えが止まらなくなりまして・・

ここで何があったのか?

当時はたいして知らなかったのですけど、

震え、寒気、動悸、あらゆる不調を感じ・・

あ・・、無理。怖い。

今まで、これほどの「何か」を感じたことは、無かったので・・

東京に戻って、何冊か本を読みました。

ガマ

ガマ とは、自然洞窟のことなんですけどね。

摩文仁の丘から、下って、下って、

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このような奥に、多くの民間人が逃げ込み・・

沖縄戦

戦時中の 沖縄 は、激しい地上戦 が行われました。

日本の軍隊も、敵の軍隊も、民間人も、

摩文仁に、集まってきました。

沖縄の人は、ガマへ、避難したのです。

ガマの中で

避難したガマに、敵軍は・・

手榴弾を投げ入れたり・・

火炎放射器で焼き払ったり・・

武器を持たない人々は、

なすすべもなく死んでいき・・

ジュワジュワジュワジュワーッ・・

皮膚の焦げる音、人の叫び声、

悲痛の絶叫と、魂が抜ける感じが・・

わたくしは、とにかく震えが止まらなくなり。

とんでもない恐怖から、その場を立ち去ってしまいました。

苦しい「焼死」

実はわたくし、こんな本 ☟を読みまして。


人は、焼死 が一番、苦しいらしく・・

火事で亡くなる際、実は焼死って、そこまで多くないんです。

でも・・

この戦争で亡くなられた人は、焼死 多いんですよね。

まだ あどけない乳幼児も、妊婦も、病人も、

逃げ場の無い、 に焼かれて・・

次「心霊体験」へ ☞

戦争の地獄

では・・ 行ってみましょうか・・

ウッッ (´Д゚ll))

写真・動画を見るだけで、悪寒が・・

動画も撮ってきました ☟

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わたくし霊感あるんだって、思いましたよ・・

え、皆さん? 何も感じない??

次「黎明の塔」☞

黎明の塔

「摩文仁の丘」って、言いますからね。

丘の上と、丘の下がありまして。

上には「黎明の塔」、下には「ガマ」。

どんなトコか?

ちなみに。この辺りに、黎明の塔 というモニュメントがあります。

牛島満 (沖縄戦の総司令官)らが、自決を果たそうとした丘の頂上に立っています。

わたくし、この 黎明の塔 行ってません。

ひたすら坂道を登っていくと、たどり着くんですけどね。

ここまで行って ☝ 諦めました。

山頂 (軍のお偉いさん)より、

ガマ(名もなき戦争犠牲者) の、慰霊したいな~っ

みやび 頭の中

どんな日か?

わたくしの行った日は、9月なかば。

30分から1時間ごと・・

ザザーーーーーーッツ、ザザーーーーーーッツ、と、

すさまじい雨が 降ってきまして。

動画 ☟ ご覧ください。

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沖縄の豪雨って、怖い。

心細くなって、その場を離れたくなったのですが、豪雨で身動き取れず・・

あとがき

沖縄旅行の目的

わたくし、この下の 健児の塔 が ☟ 見たかったんです。

(左☝ YouTube は、この小屋)

鉄血勤皇隊 という言葉を知り。

◉鉄血勤皇隊◉

防衛収集により動員された、14~16歳の学生による、少年兵の部隊。

戦況悪化、長期化により兵士が不足した日本軍。

沖縄戦を迎えるにあたり、17歳未満の少年を鉄血勤皇隊として収集します。

しかし、これは法律違反。

戦争にも法律がありまして、17歳未満の者を兵隊にするには、志願兵でなければなりません。

鉄血勤皇隊も、特攻隊も、国が強制して兵隊にした(徴兵)ではなく、志願で兵隊になったという形を作りました。

そして鉄血勤皇隊ら未成年の学徒兵は、不十分な装備のまま任務を遂行することに。

任務とは、陣地構築、伝令や通信、さらに敵軍の戦車へ斬り込み攻撃を行った者もいました

木箱に10キロの黄色火薬を入れた「急造爆雷」を背負い、敵軍の戦車に体当たりしたのです

装甲の厚い戦車車体ではなく、車輪を狙って、轢かれながら、爆死するのです。

これには、体が小さいほうが潜り込み易いとの理由をつけ、年若く身体も未成熟な少年らの多くが、斬り込みを命じられました。

成功率などたかが知れているのに、日本軍は、複数人に同文書を持たせ、1人でもたどり着けばよいという考えでした。

わたくしは 独り、怒りに震えました。

まだあどけない子らを、戦場に駆り立て。

体当たり攻撃、さらには・・

何も罪のない人々が、銃弾や飢えや病気で亡くなる。

こういう時代で、かけがえのない命を失ったのに、

なんか… ☟ 黎明の塔について。

司令官サマさま、えらく高い丘で、悠長な自刃だなぁ

みやび 頭の中

☝ こーんなことを、考えちゃいまして。

黎明の塔まで、あとわずかってトコから。

下に、下に、下って行きました。

ガマに、寄り添いたかったのです。

そしたら、ガマがこんなに怖いトコだなんて。

教科書の「沖縄」

気になった方、ちょっと読んでみてください。

歴史の教科書、山川ベースで いきましょう ☟ こんな感じ

沖縄戦

1945(昭和20)年4月には ついに沖縄本島に上陸し、

島民を巻き込む 3ヵ月近い戦いの末 これを占領した

長いけど、山川 ☟ もう一丁!

沖縄本島の中部に上陸したアメリカ軍は、

付近の二つの飛行場を制圧し、島を南北に分断した。

この間、日本軍は特攻機を投入した航空総攻撃をおこなったが、

アメリカ艦隊を沖縄海域から撃退することはできなかった。

沖縄を守備していた日本軍は、

アメリカ軍を内陸に引き込んで反撃をする持久戦態勢をとったため、

島民を巻き込んでの激しい地上戦となり、「集団自決」に追い込まれた人びとも含め

おびただしい数の犠牲者を出し、6月23日、組織的な戦闘は終了した。

沖縄県援護課の資料によれば、死者は軍民あわせて18万人余りにのぼった。

みやびと「沖縄」

実は、わたくし。

沖縄のこと、全く知らなかったんです。

この歳まで、沖縄を見ようとも、知ろうとも、せず。

他人事のように感じていたし、遠い世界だと思っていました。

そんな自分がなぜ、沖縄に関心を寄せたのか?

それは、また後ほど。

今のわたくしは、沖縄を他人事だと思いたくないです。

他人事だと、思っていた自分を打ち消すくらい

知りたいし、学びたいっ!! (⌒∇⌒)

みやび、いまのBGM ☞ 「炎 (LiSA)」

♪もう何ひとつだって 失いたくない♬

今を生きる、皆さんと共に。

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