わたしのこと
あまり知られていないかもしれませんが、一乗寺駅から徒歩20分ほどの金福寺を訪れました。
関西の友人から
私にタクシー乗務員になるキッカケを与えてくれた友人は、京都に居る。
私が働きながら作家への道を突き進もう!と考えているのを知っている友人が「こんなのあるよ~」と紹介してくれた。『京都文学賞』である。
どんな話を書くか
ひと月、ひと作品のペースで書き上げるのが目標なので、貯えた知識で何か書こうと考えてみると、、、
少しだけ知ってる幕末の歴史、そして井伊直弼ゆかりの女性・村山たか が妥当だろう、となる。
この、村山たか。
人生の大半を京都で過ごしており、詩仙堂近くにある金福寺で晩年を過ごし、井伊直弼の菩提を弔っていたという。
彼の位牌も、死ぬまで手放さなかったらしい。
金福寺には、村山たかの遺品や供養墓がある。私はここを訪れ、村山たかが生涯愛したのは、井伊直弼だっただろうと確信した。
村山たかとは
村山たか は、桜田門外の変で暗殺された大老・井伊直弼の愛人だったと言われる女性である。
井伊大老と別れた後も、村山たかは京都の公家屋敷で情報収集などを行い、安政の大獄を裏で手助けし続けた幕末の女スパイとも言われている。
その安政の大獄で、色んな人を弾圧してしまったことが恨みとなった。井伊大老の死後は、薩長土の天誅によって、たった一人の息子・多田常太郎(帯刀)も処刑されてしまったのである。
彼女と深い縁にあった、息子も、愛人も、師も、みな死んでしまった。しかし彼女だけ、明治9年まで生き残った。
金福寺を訪れて
風が抜け、心の洗われるような寺だった。高台にあり、京都の町が木々の間から見える。
様々な作家が、村山たかを描いている。
長編小説だけでなく、『歴史と旅』や『歴史読本』といった短編でも、村山たかを取り上げているものは多い。
多いけれど、実は 村山たかに関する記述はほとんど残されていないと聞いている。
私としては、東京大学で膨大な井伊家史料の編纂を行った、吉田常吉の『井伊直弼をめぐる謎の人物 ー長野主膳と村山たか女ー』が一番、興味深い。
気になった点を、箇条書きで挙げてみよう。
①たか女と直弼が、いつから始まっていたか?
年代は判然とせず、天保10年(たか女31歳、直弼26歳)ではないかとしている。一方で……
②たか女の子・常太郎(多田帯刀)は、何歳で亡くなったか?
吉田常吉氏によると、常太郎を三条河原の刑場に連れて行った土佐藩士の依田珍磨は、常太郎の年齢を23~4歳と言っている。
かりに24歳とすれば、天誅にあった年から遡って天保10年生まれとなるワケで。あれ、常太郎って井伊直弼との子なんじゃないの?となってしまう。
③たか女と直弼の仲は、本当に切れてなかったのではないか?
弘化4年、長野主膳の『授業門人姓名録』に、このような記載がある。
『長沢御坊内 八月十八日 多田常太郎母 藤原たか』
長沢御坊とは、直弼の従弟が住職を務める、米原の福田寺 を指す。
あとがき
この年には既に、直弼は世子として江戸に居たはずである。
井伊直弼は、愛娘・弥千代を大層親しい間柄であった福田寺ではなく、長浜の大通寺に預けている。
つまり… これは… 私は想像力を働かせ、小説を書き始めることにしたのである。
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