車窓から撮影したのでキラキラ感が出ていませんが、、
私は知覧へ向かうバスの中で、とっても綺麗な錦江湾を見ました。
皆さんにも感動をお見せしたいのですが、写真がうまくない(笑)
そのため言葉で、見た時の気持ちを書いてみました。
わたしのこと
鹿児島マップ
昨年、私は鹿児島を訪れた。
宿泊先のホテルに併設された天然温泉に浸かりながら、飛行機やらバスで浮腫でしまった足をほぐす。
ふと地図で見た本州・鹿児島の、薩摩半島と大隅半島を思い浮かべてみた。
半島の真ん中にあるのは錦江湾。なんだか『土踏まず』みたいだなぁ‥
知覧の町
初めて見た錦江湾は、とても印象的だった。
知覧へと向かうバスの窓から、太陽の光が反射しキラキラと海が輝く。
暦は冬に差し掛かっているけれど、気候もおだやかで暖かい。
心まで温かくなるような街だった。
特攻隊
その『知覧』に集められた、特攻隊員たち。
太平洋戦争末期に編成された部隊で、若者が敵に体当たり攻撃をした。
必ず死ぬ、死ぬために敵へぶつかる作戦。特攻!
知覧 特攻基地
この知覧基地が開所されたのは、昭和16年12月24日。
クリスマスイブと言いたいところだが、、、
この時代の人達には欧米文化を祝うどころか青春も安心もない。
あるのはただ苦労のみ。
真珠湾攻撃
戦争が始まったのは同年同月の8日。
2週間もしない内に、この『太刀洗陸軍飛行学校 知覧文教所』が開所された。
※福岡県にある学校の分校
翌年2月には、さっそく少年飛行兵の教育が始まった。
知覧の飛行学校
採用は、満14歳から17歳。
当時の子ども達にとって『飛行機乗り』になることは憧れの的。
目を輝かせて入隊してきたことだろう。
軍法で『兵士になれるのは17歳以上』と定められていた。
そのため、開戦当時に14歳だった少年たちも、末期には戦場へ行くことが可能となる。
兵士の身の上
特攻には様々な身分があった。
仕事で軍人を選んだ者、戦争に駆り出された者も居る。
知覧平和会館でメモをとったので、並べてみよう。
【特攻隊員の経歴】
⑴ 士官学校出身
⑵ 少尉候補生
⑶ 幹部候補生
⑷ 操縦候補生
⑸ 特別操縦見習士官
⑹ 少年飛行兵
⑺ 航空機乗員養成所出身☜ 民間
⑺に選ばれたのは、文科系の学生や民間の操縦士たち。
戦争末期の部隊では、本来なら3年半の飛行訓練を受けるはずが、1年9ヶ月に短縮された。
出撃
知覧から飛び立つ特攻隊は、必ず晴れの日に出撃する。
私の見た錦江湾と同じ海を見ていたはず。
二度と戻れない場所。
帰ることのない片道切符の空。
これほど美しい海に見送られながら、少年たちは何を思ったのか。
見せたい未来
錦江湾だけじゃない、もっと沢山の日本を見せたかった。
美しい風景、戦後の復興、平和な生活。
戦争が終わり、77年が過ぎた。
80年、100年後の日本を、彼らに見せたいと思えるのだろうか。
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あとがき
国内を旅していますと、感動的な風景をたくさん目にします。
四季折々の日本、風土と歴史と気候、その美しさ。
鹿児島も素敵ですけど、私の暮らす東京だって自慢したい場所はいっぱいありますし、どこも大好きです。
戦争は起こってはいけない。戦争を怒っていいけど、起こしてはいけない。
私など、このように書くことしかしてませんけど、平和を守りたい。
平和だからこそ旅も楽しめるのですから、私達の未来を、錦江湾のように輝かせていたい!です。
みやび拝
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