「おかしれぇ」史跡めぐり。
平岡円四郎の生誕地 を巡りました。 ٩( ”ω” )
わたしのこと
平岡 円四郎
ひらおか えんしろう??
一橋慶喜 に仕え、渋沢栄一 を引き上げた人物。
詳細は コチラ ☟
平岡円四郎、生まれた場所
平岡円四郎の生誕地、どこにあるの?
答え:秋葉原
秋葉原といえば、ヨドバシカメラ が目立ちます。
その、すぐ並び。
練塀町
わたくし、「練堀(ねりぼり)」と読んでましたけど・・練塀(ねりべい) です。
こんな史跡があります☟ 神田から下谷までを、下谷 練塀小路 と呼びました。
練塀 と言いますのは、土塀のこと。
瓦と練土を交互に積みあげていく、練塀の家。
この辺り一帯は、練塀町という 武士の住宅地 だったんですね。
平岡円四郎は、武士の子として、生を受けました。
父・岡本忠次郎
【平岡 円四郎 年表】
1822(文政5)年、岡本忠次郎の四男として、誕生
平岡円四郎の父・岡本忠次郎。
この父なくして、息子の名が残ることは無かったかもしれない。
次「平岡と川路」へ ☞
川路聖謨
川路聖謨 (かわじ としあきら)という幕臣が居まして。
ポンポポン、ポンッと出世していき・・(´ω`★)ナイトプールッ
ロシア使節と交渉! 朝廷工作! 色んな政務をこなしました。
この方、とてもユニークで・・
幕末に、外国人を見たり、話したり、そんな機会なんて稀ですよね。
交渉に当たるなんて、肝が据わっていなければ、できません。
そんな時代に、この川路、ロシア人を魅了したほどの人物。
「川路さーん、写真を撮りましょう♬」と、ロシア人からお声が。
「いやいや、私のようなブ男を、日本人の顔の代表と思われては困るw」
・・すごい。さすが。
わたくし、少しばかりロシア語を話せます。
これを真似て、ロシア人美女と話すときには・・
『わたくしを、日本人の顔と思われては困る!』って、言いたい。
ロシア人は、彫刻のように美しい人が多いので ( ´艸`)ハズカシッ
【ロシア人の回想】
私達はみな、気に入っていた。川路は、非常に聡明であった。
彼は、私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。
彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼と、練達を顕していた。
明知は、どこへ行っても同じである。
イワン・ゴンチャロフ
川路と平岡パパ
この 川路、父・岡本忠次郎と、とても親しく。
「うちの息子(平岡円四郎)、仕事辞めてニート (´-ω-`)」
なーんて相談を、したのでしょうか・・
きっと 川路聖謨 は、平岡円四郎 本人のことも、よく知っていたのでしょう。
川路聖謨 は、平岡円四郎 を水戸に紹介します。
このように活躍する一方。
川路は、慶喜を将軍にする 一橋派のメンバー。
安政の大獄により失脚・・
次「平岡と水戸」へ ☞
水戸家
さて、何かとお騒がせしております、水戸家。
御三家・御三卿、もう知ってるよ~って人は、次のページ ☞
水戸徳川家って、どんな家?
徳川、御三家。
始祖・家康の息子たちで、大名。
- 尾張 徳川家 (家康の子) ⇒愛知県
- 紀伊 徳川家 (家康の子) ⇒和歌山県
- 水戸 徳川家 (家康の子) ⇒茨城県
☝ 江戸から近い水戸は、荒くれ息子を膝元(江戸)に置くため。
初代将軍・家康が 江戸を守る大事な立地は 身内に任せよう!と配置。
慶喜はこの、水戸のお坊ちゃま。
将軍の跡取り
この時代の、背景も少し。
徳川将軍1代~8代までは、3つの家から
将軍家に跡取りが育たなければ、御三家から継ぐこと。
そんな決まりとなっていたのですがね。
8代~15代の将軍からは、
将軍家に跡取りが育たなければ、将軍の家族・御三卿、なければ御三家から継ぐこと。
こうして、6つの家に生まれた息子たちは、グルグルッと養子入り。
特に、御三卿の家を継ぐと、チャンスがあるかもしれない・・
貴公子・慶喜
水戸家に生まれた慶喜、生母は皇族。
「一橋家の跡取りが居ないから、養子にきませんか?」
なんて話が舞い降り、将軍になれるかもっ!?
水戸から将軍を出したい、そして権力を手中に・・
慶喜の父・徳川斉昭は、慶喜を 一橋の養子 に出したのでした。
斉昭は、烈公(れっこう) と名が付いたほど、モーレツな御方。
しかし・・
烈公の優秀さは、優れた家臣が居たから
と、言われているほど。
そんな優秀な家臣も、伝えさせてくださいませっ!
藤田東湖
☟ わたくし、水戸の藤田東湖にも、会ってまいりました。
藤田東湖は、平岡円四郎 を推薦。
慶喜の父であり、水戸藩主・徳川斉昭を経由し・・
平岡円四郎、慶喜に仕えることとなりました。
平岡円四郎
1822(文政5)年、岡本忠次郎の四男として、誕生
1838(天保9)年、旗本・平岡家へ養子入り。16歳
1841(天保12)年、昌平坂学問所に勤務。19歳
1843(天保14)年、退職。理由:武術に励む。21歳
1853(嘉永6)年)、一橋家・家臣 に。31歳
1863(文久3年)、一橋家・番頭 に。41歳
1864(元治元)年、刺殺される。享年43歳
ザッと挙げてみました。ついでに・・
下谷練塀小路
1872(明治5)年、練塀町 正式名に。
1878(明治11)年、下谷区に編入。
1943(昭和18)年、南が神田区に編入。
1947(昭和22)年、神田練塀町(かんだねりべいちょう) 名称変更。
1890(明治23年)、秋葉原に国鉄・貨物駅 完成。
1923(大正12年)、神田青果市場 移転。東京の物流拠点に。
2005(平成17)年、常磐新線(茨城) 開通。
あとがき
今回のテーマ「平岡 円四郎」2/3部作
平岡円四郎と縁のある、千代田区・文京区。
わたくし、この辺りが大好きです。おいでませませ、秋葉原!
あなたの旅の参考になれば、幸いです。
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