2018年6月、初夏の京都旅行 へ。まずは 京都御苑/御所 から!
見どころ
京都御苑、どこから書こう?私なら、蛤御門(はまぐりごもん) ですね!
推しの長州藩士
私の推し、それは久坂玄瑞(くさか げんずい)。
高杉晋作 ももちろん好きですが、背骨とまではいかなくても、肋骨くらいの位置で 久坂玄瑞 が好きです。
180㎝のイケメンで、芸姑の間でも人気者でした。
背骨の元ネタ、分かりますかね?(汗)
8つの御門
京都御苑の周りには、かつて公家町と市中の境界となっていた 8つの御門があります。
公式HP から拝借しましたが、色々ありすぎで字が見えないので、文字にします。
読むのがちょっと大変ですけど、こんな感じの配置です。
上部:右から ⇒ 同志社大学側
今出川口(いまでがわぐち)
⑴今出川御門(いまでがわごもん)
右側:上から ⇒ 盧山寺側
⑵乾御門(いぬいごもん)
⑶中立売御門(なかだちうりごもん)
⑷蛤御門(はまぐりごもん)、出水口(でみずぐち)
⑸下立売御門(しもだちうりごもん)、椹木口(さわらぎぐち)
左側:上から ⇒ 京都平安ホテル側
⑹ 石薬師御門(いしやくしごもん)
⑺ 清和院御門(せいわいんごもん)
⑻ 寺町御門(てらまちごもん)
蛤御門に到着!
私が訪れた時は
※個人的な事なので、読まなくてもOK。
迷って迷って、今出川御門(中央上部)の方から、京都御苑の中に入って一條邸跡(右上部)を通り過ぎ、中立売御門(左側中央)から出て、蛤御門(左側下中央)へ歩きました。
(スタート ⇒ 中央上 ⇒ 右 ⇒ 内部の左上 ⇒ 外部の左側中央 ⇒ 左側下部中央 って感じ)。
下へどうぞ ☟
蛤御門 はコチラ。は・ま・ぐ・り・ご・も・ん ですよ!
蛤御門
1708年に起こった宝永の大火で、常に閉ざされていた御門が開門されたことから 焼けて口開く蛤 にたとえられ、 蛤御門 と呼ばれるようになりました。
私の推し・久坂玄瑞は、この御門の名がつけられた 禁門の変 で命を落としました。
どれほどの出来事があったのかと思うと泣けてきます。
長州の肋骨 を失った戦いですから、涙があふれて止まりません ( ノД`)シクシク…
過去の傷跡
禁門の変 で 京都御苑が主戦場となり、幕末動乱の転機に。
最大の激戦地は 蛤御門。
生々しい弾傷の跡が残されています。
悲しい歴史は、立て看板にも。
武力を持たない 帝(天子様)・公家たち。
いきなり武士たちに攻め込まれたら・・絶対、怖い。
おさらい
禁門の変
【流れはこんな感じ】
安政の大獄
⇓
桜田門外の変
⇓
公武合体
⇓
八月十八日の政変 (1863年8月18日)
⇓
横浜鎖港の案 (大河ドラマのやつ)
⇓
禁門の変 (1864年7月19日)
久坂玄瑞 とは
長州藩(山口県)出身の武士。
吉田松陰、一番の愛弟子と言える人物。
長州藩医(医者)の家庭に生まれました。
病死した兄・ゲンキ
年の離れた兄・玄機(げんき) は、大坂の適塾(てきじゅく・当時の最先端医学を学べる医学部) で 塾頭を務めるほど優秀な人物。
しかし 玄瑞 が15歳の時、両親に続いて兄も亡くなりました。
ゲンキ、名前負け。☟ これは腐女子の妄想。
吉田松陰、義兄に
天涯孤独となった玄瑞。
遊学先の熊本で「君んちの近くに良い先生が居るよ!」と教えられます。
吉田松陰です。
松陰に師事し、松陰の妹・文(ふみ) を嫁に迎え、松陰亡き後も意思を継ぎ、色んなことをしました。
もっと長く語りたいのですが(対馬とか)、グッと堪えて割愛しますw
松陰 先生グッズ 欲すぃい ☟
哀愁ただよう長州、アイ(哀)♡長州
長州と言うのは ”朝臣(あそん)” の称号を賜っており、「天皇陛下の家来」として関ヶ原後も朝廷への献金を続けていました。
なのに幕末になると”朝敵(ちょうてき)”とされてしまい、この後も 泣き面に蜂 でめっちゃ大変な目に。
この 禁門の変 で追い詰められた 玄瑞 は仲間と共に自害しました。
炎上、推し燃ゆ。
あとがき
長州がんばった!
禁門の変 や 久坂玄瑞・無念の死を知ってしまうと、薩長同盟がどれほどすごい事なのかを改めて知ることが出来ます。
坂本龍馬はもちろん偉人ですし、素晴らしい幕末志士ですが、私は恨みを忘れて手を取り合った 薩摩&長州って、凄いし偉いなーって思います。
言葉にするのは簡単だけど、人間も組織もそんなに単純に出来てないですからね。
久坂玄瑞 を失い、松下村塾の仲間を失い、その後も踏んだり蹴ったり。
それでも薩長同盟を成しとげた長州に、私は令和から拍手を送りたいと思います。
さいごに
と書いて、あっ京都の話してない と言う事に気が付きました。
また次、公家について書きたいと思います。
幕末を愛する皆様へ ☟ どんどん妄想してください